よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)9

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 しばらくして、強ばった面持ちで二人が入室してきた。
「……こたびは話を聞いていただく機会をいただき、まことに有り難き仕合わせにござりまする」
 重臣たちの鋭い視線の中で、真田幸綱が頭を下げる。
「戦の前に、小県を熟知しているそなたの話を聞けるのは貴重な機会だ。危惧があるならば遠慮なく申してくれ。忌憚(きたん)なき見解を期待している」
 晴信の言葉に、再び頭を下げる。
「承知いたしました。これをご覧くださりませ」
 真田幸綱は懐から手書きの地図二枚を取り出し、一同の前に広げる。 
「小県の地勢には独特の癖がありまして、砥石(といし)城のある真田郷周辺と上田(うえだ)宿から広がる上田原とでは、まったく様相が異なっておりまする。われらが小県攻略の足場と考えている信濃国分寺(こくぶんじ)から見ますれば、砥石城は北側の高陵にあり、その周囲には大小十以上の小城、砦、館などが点在しておりまする。つまり、敵はわれらの陣より優位な高所に伏兵を置くことができ、斜面に雪や霜などが降りれば、寄手(よせて)による排除が難しくなるかと」
 さらに幸綱は砥石城と真田郷の反対側を示す。
「戦が始まったことを知れば、民は上田宿から葛尾(かつらお)城のある坂木(さかき)へ退避し、後には空家や寺社などの家屋だけが残り、ここに敵が潜まぬとも限りませぬ。千曲川(ちくまがわ)の対岸となる上田原に敵が陣を置くとは思えませぬが、砥石城攻めを牽制(けんせい)するために対岸の近くに兵を置き、挑発に出てくることは考えられまする」
 まるで戦場全体を鳥瞰(ちょうかん)するように、幸綱は考え得る敵の戦略を語る。
「さて、最後は砥石城にござりますが、簡単ながら縄張り図を用意いたしました。この城は東太郎山(ひがしたろうやま)の尾根上に築かれ、城に至る道筋は追手路一本限り。かなりの急坂になっておりまして、その追手路は岩盤が剥き出しになった上に細かな石砂で覆われ、夏でも砥石の如(ごと)く滑りまする。雨が降る春秋はさらに滑りが酷(ひど)く、霜が降り雪が積もる冬ともなれば最悪の状況となってしまいまする。つまり、敵は登攀(とうはん)に手こずる寄手に雨霰(あめあられ)と矢を降らし、撃退するのが常套(じょうとう)手段となり、これが守るに容易(たやす)く、難攻不落と呼ばれる砥石城の特長にござりまする」
 幸綱は各所の説明を終えてから、結論に向かう。
「これらの事柄から導かれる答えは、われらの目的が砥石城を落とすことならば、敵はあえて正面から干戈(かんか)を交える必要がないということにござりまする。われらの眼を砥石城にひきつけておきながら、先陣が動いたならば思わぬところから横槍を入れるだけで済みまする。しかも荒天になればなるほど、陣を分散して小勢で守れる敵の有利となりまする。できるだけ戦を長引かせ、軍勢を細かく分散できぬわれらの本陣に奇襲を仕掛け、後は兵粮(ひょうろう)が尽きるまで弄ぶようにあしらえばよい。只今の長和の天気を見ておりますれば、間違いなく小県は霜の張る極寒に加え、雪の恐れもありまする。相当に難儀な戦いとなることは明白かと」
 その話を聞き、信方が眉をひそめながら問う。
「ならば、そなたはこの戦を諫止(かんし)しにきたということなのか?」
「……いいえ、諫止とまでは考えておりませなんだ。ここまで戦の支度を調えておきながら、ここで中止というわけにはまいりますまい。そうではなく、不利なことも多い状況ゆえ、あまり深追いなさらぬ方がよいのではないかと申し上げにまいりました。敵が動かぬようならば、素早く切り上げるというのも上策ではないかと」
 真田幸綱は冷静に答える。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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