よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)10

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 科野総社は信濃(しなの)国の一宮(いちのみや)であり、天武(てんむ)天皇の御世に神地の下賜があり、天平(てんぴょう)年間には官祭の儀があったとも伝えられている。
 この地に総社と国分寺があったということは、信濃の国府が上田(うえだ)に置かれていたという証であった。
「総社大宮ならば国分寺にも遜色のない陣を構えることができよう。さて、正国。われらの先陣を退かせ、まんまと国分寺に本陣を構えた武田は、どうするであろうな?」
 義清は家宰の若い嫡男、屋代正国に訊く。
「……はい。まずは陣の周囲を固め、伏兵がいないか物見を出しまする。われらの陣構えを摑んだ後に、砥石城へ至るための策を考えまする」
「ふっ、常道だな。されど、まあ、そんなところであろう。だが、さようなことでは、われらの陣構えどころか、伏兵の姿さえ捉えることができぬ。なぜならば、小県と上田の至るところに、われらの陣が隠されており、それらは捉えたと思うた刹那に消えてしまうからだ。そして、やがて気づくであろう。まるで餌に釣られて籠の中に飛び込んだ鼠(ねずみ)の如く、己らが抜き差しならぬ場所に誘い込まれたということを。眼を閉じて想像せよ。国分寺から砥石城のある北側を見上げた時、そこには何が広がっておるか、正国?」 
「……頂き、山肌……連綿と続く斜面」
「少しでも兵法をかじったことがある者ならば、思い出すであろう。高陵には向かうこと勿(なか)れ、背丘(はいきゅう)には逆うること勿れ、と」
 義清の言った孫子(そんし)の訓戒は「高地に陣取った敵を、正面から攻撃してはならない。丘を背にした敵に逆らってはいけない」という意味だった。
「ゆえに、われらは砥石城と国分寺の中間、古里(ふるさと)の辺りに伏兵を置く。篠ノ井(しののい)、厳島(いつくしま)、廣野邊(こうのべ)など、寒さを凌ぐ仮陣とできる社ならば、いくらでもある。ここで夜まで待ち、鐘や銅鑼(どら)で脅し、火矢を打ち込んでやればよい。敵が出てきたならば、さっさと仮陣を捨て、高陵にある伊勢崎(いせざき)砦に逃げ帰ればよい。武田の者どもは、斜面を上ってまで深追いもできまい。もしも、出てくることがあれば、西の総社大宮から横槍を入れるだけだ。これを嫌になるまで続けてやる。それだけではないぞ……」
 酷薄な笑みを浮かべ、義清が言葉を続ける。
「次は、奴らの背後を脅かす。神川を渡った東側の富里にも伏兵を置き、武田の退路側からも夜襲をかける。富里にも使える寺社がいくらでもあるゆえ、変幻自在に陣を変えてやればよい。敵がむきになって攻めてきたならば、山上の矢沢(やざわ)城へ退かせよ。これで武田の者どもは生きた心地がしなくなる。なぜならば、国分寺を本陣とした己らが谷底の絶地に留(とど)まろうとした愚昧者(おろかもの)だと気づくからだ。そして、寒さと焦りから戦を早く進めようとし、軍勢を細かく分けて伏兵を叩こうとするであろう。見てみよ、われらはほとんど兵を失わず、敵をばらばらにできたではないか。何か異議はあるか、正国?」
「……ござりませぬ」
「されど、それだけでは済ませぬぞ。武田は必ずわれらの先陣である科野総社を落とすべく、最も屈強な将が率いる先鋒の軍勢を向けてくる。これも適当にあしらった後、われらは素早く兵を退け。その餌兵(じへい)に、武田の先鋒を喰いつかせる場所は……」
 義清は扇で地図を痛打する。
「ここだ!」
 扇の先で示された場所を見て、他の者たちは眼を見開いて絶句した。
 それほど意外な場所だったからである。
「……殿、なにゆえ……」
 家宰の問いを意に介さず、義清は屋代正国に命じる。  
「喉が渇いたな。正国、酒(ささ)を持て」
「はっ!」
「武田晴信(はるのぶ)、どれほど典籍で孫子を学ぼうとも、実戦で鍛え上げてきた用兵術の妙には届かぬ」
 そう呟(つぶや)き、不敵に笑う。
 村上義清が引用したのは、孫子の兵法第八「九変篇」の重要な一節である。
『孫子曰(いわ)く、凡(およ)そ用兵の法は、高陵には向かうこと勿れ、背丘には逆うること勿れ、絶地には留まること勿れ、佯北(しょうほく)には従うこと勿れ、鋭卒には攻むること勿れ、餌兵には食らうこと勿れ、帰師(きし)には遏(とど)むること勿れ、囲師(いし)には必ず闕(か)き、窮寇(きゅうこう)には迫ること勿れ』
 孫子曰く、およそ用兵の原則は、高い丘にいる敵に向かって攻めてはならず、丘を背にして勢いよく攻めてくる敵を迎え撃ってはならず、険しい地勢にいる敵と長く対峙してはいけない。偽りの退却をする敵を追ってはならず、士気の高い兵には攻撃を仕掛けてはならない。囮(おとり)の兵士に攻撃してはならず、母国に退却しようとしている敵軍を塞(ふさ)いではならない。包囲した敵軍には逃げ道を開けておき、窮地に追い込まれた敵軍に迫ってはならない。これが戦いの原則である。
 そのように説かれていた。
「武田の小童(こわっぱ)、うぬには見えておらぬ戦が、わが眼にはすべて見えておるぞ。小県の地でど壺にはまり、足搔(あが)く姿がはっきりとな」
 盃(さかずき)の酒を一気に煽(あお)り、村上義清は高笑いした。


プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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