よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)11

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 金堂に戻って室へ入り、しばらく経つと戸の外から声が響いてくる。
「兄上、失礼いたしまする」
 弟の信繁だった。
「夕餉(ゆうげ)をお持ちいたしました」
 あえて近習(きんじゅう)に運ばせず、己で届けにきたようだ。
「ご苦労」
 晴信は答えながら戸を開ける。
 信繁が運び入れた膳は夕餉といっても、根菜などの具が入った汁と笹の葉にくるんだ強飯(こわいい)という質素なものである。
 戦場(いくさば)にいる時、晴信は必ず将兵たちと同じものを食べるようにしていた。
「信繁、そなたは夕餉を済ましたのか?」
「……いいえ、まだにござりまする」
「ならば、ここで一緒に喰おう」
「まことにござりまするか?」
「おお。そなたの膳を持ってこい」
「わかりました」
 信繁は己の夕餉を取りにいった。
 ――あ奴も己のすべきことを常に考えながら動き始めたようだ。
 そう思いながら、晴信は弟が戻ってくるまで待つ。
「お待たせいたしました」 
 信繁が膳をおろし、晴信と向かい合う。
「いただきまする」
 親指に箸を挟み、晴信は両手を合わせる。
 すでに亥(い)の刻(午後九時)を過ぎており、二人はかなり遅い夕餉を取り始めた。
「温かい汁があるだけで、だいぶ気持ちが和むな」
 晴信は強飯に手をつけず、ゆっくりと椀を啜(すす)っている。
「いつものことだが、戦が始まって陣に入ると腹が減らぬのだ」
「まことにござりまするか、兄上!?」
「なにゆえか、そうなのだ。おそらく、最初は緊張で強飯が喉を通らぬのかもしれぬ。されど、数日経つと、猛烈に腹が減ってくる。それが己にとっては戦場に馴染んだ徴(しるし)だ」
「なるほど」
「かような話を聞いたからといって、そなたが遠慮する必要はないぞ。余とそなたでは、日がな動いている量が違うのだ。もしも、喰えるならば、これも喰え」
 晴信は強飯の包み二つを弟の膳に乗せる。
「兄上……」
「夜食にとっておいてもいいぞ。気が昂ぶって眠れぬと、途端に腹が空いてくるものだ」
「……ありがとうござりまする」 
「戦場では、喰える時に喰う。眠れる時には、しっかり眠る。やがて、軆が慣れ、短い眠りで回復するようになる」
「わかりました」
「ご馳走様でした」
 再び手を合わせてから、晴信は空になった椀を置いた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number