よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)11

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「では、この強飯は、ありがたくお夜食でいただきまする」
 信繁は二人分の膳を片付けながら言う。
「兄上、床を取りますが、お布団に焼石の行火(あんか)を入れましょうか?」
 焚火で大きめの石を焼き、襤褸布(ぼろぬの)でぐるぐる巻きにすれば簡易の行火となる。
 冬の戦場では、よく使われる手段だった。
「いや、行火はいらぬ。寝過ぎてしまうからな」
「……わかりました」
「そなたも、もう休むがよい」
「承知いたしました。では、失礼いたしまする」
 信繁が退室し、しずかに戸を閉めた。 
 晴信は行燈(あんどん)の傍(そば)で小県の地図を開く。
 ――真田が申していたように、この戦は少々難しいものになるかもしれぬ。
 そんな事を思いながら、しばらく思案を続けた。
 夜が更け、さすがに疲れを感じた晴信は地図を閉じ、あえて軍装を解かずに軆を横たえる。
 眼を瞑ると、すぐ睡魔に襲われる……。
 その刹那だった。
 突然、馬たちの鋭い嘶(いなな)きが響いてくる。
 晴信が驚いて飛び起きると、今度は兵たちの怒声が聞こえてきた。
 ――いきなり夜襲か?
 槍を手に取り、晴信は金堂の外へ出た。
 けたたましい物音は、厩(うまや)がある陣の一角から響いてくる。
「御屋形様、それがしが見てまいりまする」
 金堂の警固をしていた教来石景政が駆け寄った。
「いや、一緒にまいろう。様子を確認したい」
「……承知いたしました。では、警固の兵をお連れくださりませ」
「ああ、わかった」
 晴信は教来石景政と数名の兵を伴い、北東にある厩の方に向かう。
 すると、番兵たちが集まり、昂奮した馬たちをなだめすかしている様が見えた。
「いかがいたした?」
 晴信の問いに、振り返った足軽頭が眼を丸くする。
「……お、御屋形様」
「何があった?」
「て、敵と思(おぼ)しき者たちが……厩に火矢を打ち込みまして、驚いた馬たちが暴れ始めました」
「傷ついた馬はいるのか?」
「いいえ、厩の壁に矢が刺さっただけで、馬には当たっておりませぬ。火もすぐに消しましたので広がっておりませぬ」
「さようか……」
 晴信は暗闇に包まれた周囲を見渡す。
「して、騒ぎを起こした者どもは?」
「……すぐに逃げましてござりまする。寺の外を探させておりますが、姿は見つかっておりませぬ」
「あまり深い追いさせるな。景政、尼寺の者たちにも警戒を怠らぬよう伝えてくれ」
「御意!」
 教来石景政は北西の尼寺に向かって走り出した。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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