よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)11

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 入れ替わるように、信繁と加藤信邦が駆け寄ってくる。
「御屋形様!……敵の夜襲があったと聞きましたが……」
「信邦、夜襲ではなく、ただの嫌がらせのようだ。厩に何本か火矢を打ち込み、すぐに退散したようだ。陣の仕立ては見透かしているぞ、という敵方の威嚇(いかく)であろう」
「はぁ……。されど、番兵の巡回を増やしまする」
 加藤信邦が渋面で答えた。
「兄上、周囲の捨篝を減らしたため、夜陰に乗じて敵が近づけたのではありませぬか?」
 信繁が険しい面持ちで訊く。
「そうだとしても、捨篝を増やすのはもったいない。番兵の巡回でなんとかしよう」
「……わかりました」
「かようなことは、まだまだ序の口であろう。あまり、かりかりするな」
 晴信は弟の肩を叩(たた)く。
「承知いたしました」
「では、戻るぞ」
 何事もなかったように、晴信は金堂に戻った。
 室で軆を休めていると、一刻後に再び騒ぎが起きる。
 今度は砥石城のある北側の山間から鉦(かね)や太鼓を規則的に打ち鳴らす音が聞こえてきた。
 陣中がざわつき、寝ていた者たちも起き上がる。将兵たちの間にも緊張が走った。
 しばらくすると、科野(しなの)総社がある西側でも鉦や太鼓を打ち鳴らす音が響く。
 こうした音のやり取りが断続的に続き、何かの通信が行われているように思えた。
 時刻はすでに丑(うし)の刻(午前二時)を過ぎ、寅(とら)の刻(午前三時)に入らんとしている。
 数度の繰り返しの後、やっと噪音が鎮まる。しかし、四半刻(三十分)もすると、また同じように鉦や太鼓が鳴り、今度は法螺貝(ほらがい)を吹く音までが加わった。
 ――徹底して、われらを眠らせぬつもりか。
 晴信が金堂の蔀(しとみ)を開くと、西の方角に烽火(のろし)が上がっている。
 ――戦の常道とはいえ、腹立たしいこと、この上なし。
 結局、本当に何かの通信なのか、ただの嫌がらせなのか、わからないままに払暁(ふつぎょう/日の出)の直前まで続いた。
 そして、朝餉もそこそこに、重臣たちが軍(いくさ)評定に招集される。
「……まったく、小うるさき奴らだ。すっかり寝不足じゃ」
 原虎胤がぼやきながら講堂の広間に入ってくる。 
「騒ぐ元気があるならば、攻めてくればよいものを。臆病者どもめが!」
 不機嫌な顔で胡座(あぐら)をかいた。
 そこに晴信が現れ、腰を下ろした瞬間、前置きなしで跡部信秋に問う。
「伊賀守(いがのかみ)、物音が聞こえた科野総社の諜知は済んでおるか?」 
「はい、御屋形様。夜半過ぎに鉦や太鼓が打ち鳴らされた時には、遠目からも多くの人影を確認いたしましたが、陽が昇ってから近づくと人気がなく、忍び込んでみると蛻(もぬけ)の殻(から)でありました」
「夜中にいた敵兵が、払暁前にはどこかに引き揚げていたということか?」
「そうとしか思えませぬ」
「ならば、総社に敵の先陣は置かれておらぬということか」
「……どうやら、そのようにござりまする」 
 跡部信秋が眉をひそめて答える。
「念の入った嫌がらせということか」
 原虎胤が仏頂面でぼやく。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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