よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)18

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「……皆に……知らせねば」
 地面に倒れるが、肘を使って這(は)い始めた。
 しかし、腹の傷は思っていた以上の深手であり、才間信綱は実検場を出る前に息絶えてしまう。
 そのような惨劇が起きていることを、防備に当たっていた横田(よこた)高松(たかとし)はまだ知らなかった。
 それでも、長年にわたり戦場(いくさば)で培った勘で周囲の不穏な気配を感じていた。
 ――どうも、ここは居心地が悪い。闇鴉(やみがらす)の如(ごと)き敵どもの眼に晒(さら)されているようで、尻がむず痒(がゆ)くてかなわぬ。この戦で初めての手柄とはいえ、首実検など早く済ませ、次の動きを考えた方がよかろう。さように駿河守殿へ進言してくるとするか。
 そう思いながら、横田高松は浦野川(うらのがわ)を望む陣の北側から信方の処(ところ)へ向かう。
 入口で三科(みしな)形幸(なりゆき)と広瀬(ひろせ)景房(かげふさ)が見張っている。
「形幸、駿河守殿はまだ奥か?」
 横田高松が訊く。
 実検場は周囲との隔てをしなければならないため、敵陣の幔幕(まんまく)を利用して囲いがなされている。
「はい。修験僧たちが首祀を行い、間もなく御大将の検分が終わる頃かと。先ほど才間殿が様子を見に行かれましたが」
 三科形幸の答えに、高松は小さく頷(うなず)いた。
「信綱殿がご一緒ならば好都合だ。駿河守殿に進言いたしたき事柄があるゆえ、幕内へ行きたい。構わぬな?」
「どうぞ」
「何か言伝(ことづて)があれば預かるが」
「特段、ありませぬ」
「さようか」
 横田高松は小さく頷き、実検場へ向かった。
 幕内へ入った途端、血の海の中で息絶えている武者が視界に飛び込んでくる。
 ――な、なんだ、あれは。
 横田高松が立ち竦む。
 用心深く近づき、屈んで面相を確かめる。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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