よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)18

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 横田高松が言った母衣とは、鎧の背に巾広の絹布をつけて風で膨らませ、矢や石などから防御するための旗指物の一種である。
 確かに母衣ならば、背負った遺体を自然に隠すことができる。
「わかりました。景房、そなたは晒と縄と母衣を用意してくれ。それがしは駒を引いてくる」
「承知!」
 広瀬景房が険しい面持ちで踵(きびす)を返す。
 三科形幸も二人の愛駒を連れてくるために走った。
 素早く道具を集めた三人は、信方と才間信綱の血を拭き取り、傷口を晒で幾重にも巻く。 それを済ませてから、まず信方の遺体を三科形幸が背負い、緊密に縄で括り付ける。同じように広瀬景房が才間信綱の遺体を背負い、横田高松が二人の背を黒母衣で覆ってやった。
 二人の騎馬武者は足軽大将の介添えで愛駒の背に跨(また)がり、姿勢を整える。
「頼んだぞ」
 横田高松の言葉に、二人が頷く。
「備中殿の御武運をお祈りいたしまする」
 そう答えてから、三科形幸が愛駒の腹を蹴る。
 広瀬景房がそれに続き、二騎は人知れず陣中から走り去った。
 横田高松は実検場を後にし、足早に陣中を廻(まわ)り、兵たちを集める。
「駿河守殿は首実検を終え、一行を率いて報告へまいられた。もう、この隙だらけの陣に用はない。われらは観音寺(かんのんじ)まで……」
 そこまで言いかけた時、陣の外から響動(どよ)めきが聞こえてきた。
 皆が音のする方に耳を傾けていると、一呼吸おいて番兵が駆け込んでくる。
「御注進! 敵襲にござりまする!」
「どこからだ?」
「西の神社と北の方角からだと思われまする」
「敵の数は?」
「わかりませぬが……夥しい数かと」
「われらよりも遥(はる)かに多いということだな!」
「……おそらくは」
「わかった。東側の退路を確保せよ! 急ぎ観音寺まで退却するぞ!」
 横田高松が命じ、兵たちは慌てて動き出した。
 ――この退却は難しい。戦いながら退(ひ)くのは避けたい。まずは観音寺を足掛かりとし、備前守殿と合流せねば。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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