よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)18

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 安中一藤太は血染めの首袋を差し出す。
 それを見た甘利虎泰の全身の血が沸騰する。
「首級が本物だと申すならば、それを賭して、この身と一騎打ちをせよ! わが名は甘利備前守、源(みなもとの)、虎泰なり。板垣駿河守信方の副将だ。不足はなかろう!」
「片腹痛いわ! 己の大将の首を奪(と)られたことを知らぬ間抜が何をほざくか!」
 安中一藤太が嘲笑(あざわら)う。
「一騎打ちなど必要ない! うぬはここで死ね! 総軍で、あ奴を討ち取れ!」
 その刹那だった。
 甘利虎泰は愛駒の腹を蹴り、真っ直ぐに走り出す。一騎駆けで敵陣へ突き込む勢いだった。
 瞬きよりも速い即断即決。
 これまで幾多の死線をくぐり抜けてきた猛将ならではの直感である。
 もちろん、その後ろで鋒矢の陣を組んでいた五百の騎馬武者も、それを傍観していたわけではない。
 常日頃から荒々しい戦い方をする大将の気性を熟知しており、相呼吸で一斉に駆け出す。
 甘利隊はまさに放たれた矢の如く風を巻いて敵に攻めかかろうとする。
「このまま一人一殺! 五百も倒せば、あの大将首に届く! 足軽どもの鶴翼など恐るるに足らずだ!」
 甘利虎泰が先頭で槍を突き上げ、自軍を鼓舞する。
 鶴翼はその名の通り、鶴が翼を広げるが如く左右に開いた陣形であり、両翼に槍足軽の部隊を置くのが通例だった。
 突撃してきた敵軍に対しては両翼を閉じ、左右から包み込むように挟撃することで、自軍の被害を抑えながら戦うことができる。その場合、両翼の槍足軽部隊が素早く相手を包むことが戦術の要だった。
 古(いにしえ)より野戦で用いられることが多く、相手よりも数に勝れば最も防御に適した陣形でもある。
 しかし、甘利虎泰が選んだのは、騎馬の疾さを活かして中央突破を狙うという策だった。
 あまりに愚直な策に思えるが、現状は違った。
 甘利虎泰の動きに、敵は意表を衝かれている。その戸惑いにより両翼の足軽は動きが鈍く、敵が群がってくる前に疾風となった鋒矢が相手の大将がいるところまで陣を貫けそうだった。まさに小勢の一軍を率い、針の穴を通すが如き一撃を見舞うという力攻めである。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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