よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)19

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 構わず、虎泰は絶命した敵を蹴り飛ばし、軆を起こそうとした。その両眼に、恐るべき光景が映る。
 槍や刀を手にした敵の足軽に八方を囲まれていた。
「ふっ……」
 猛将の口唇の端から、思わず苦笑がこぼれる。
 佩刀(はいとう)を抜きながら立ち上がった虎泰に、足軽たちが襲いかかった。
 手練の武者を仕留めるためには、八方から一度にかかるしかない。敵の足軽たちが一斉に体当たりしてきた。
 孤軍奮闘だった。
 甘利虎泰は群がる敵と斬り結び続けるが、ついに足軽たちに刃を突き入れられ、咆哮(ほうこう)を上げながら仁王立ちした。
 ――ここまでか……。
 そう思った途端、周囲を取り巻いていた敵足軽の一角が吹き飛ぶ。
「備前(びぜん)殿!」
 敵を撫(な)で切りにした初鹿野高利が叫ぶ。
「……伝右衛門(でんうえもん)」
 噴き出す血を押さえながら、虎泰が答えた。
 だが、霞(かすみ)に包まれたが如く、眼の前が朦朧(もうろう)としてくる。
 倒れそうになった虎泰の軆を、初鹿野高利が受け止めた。
「備前殿、しっかりなされ! われらがお守りするゆえ!」
 数は少なかったが味方の足軽隊も駆けつけていた。
「……伝右衛門、こ、これを」
 虎泰は安中(あんなか)一藤太(いちとうた)から奪い返した首袋を渡そうとする。
「備前殿……」
「何も……訊くな。……とにかく、これを守り……本陣へ。……敵に渡してはならぬ」
 その言葉で、初鹿野高利はすべてを悟った。
「おい、行村(ゆきむら)! 行村はおらぬか!」
 高利が使番の小山田(おやまだ)行村を呼ぶ。
「ここにおりまする!」
 槍を手にした行村が駆け寄る。
「そなたはここを離れ、これを御屋形(おやかた)様に届けよ」
 初鹿野高利が血染めの首袋を差し出す。
「承知!」
 あえて理由を聞かずに、小山田行村はそれを受け取り、愛駒のいる場所に走った。
「われらは観音寺(かんのんじ)まで退(ひ)くぞ!」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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