よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「敵に背を向け、神川の手前で追いつかれるよりはましであろう。加えて、ここにはまだ二千の将兵が残っており、そなたらを加えれば二千五百だ。鬼美濃と飯富の隊にも戻るよう伝えてあるゆえ、その二千が加われば数でも劣らぬ」
 晴信はきっぱりと言い切る。
「……確かに、さようとは存じまするが」
「敵の足を止めるのならば、建屋を使って守る方がよい。ずるずると下がって背に喰いつかれるよりも、われらの戦う意志を見せた方がよい。武田の本隊がここに籠もっていると知れば、敵もいったんは止まるはずだ」
「わかりました。ならば、それがしは神川へ向かっているはずの鬼美濃殿と兵部(ひょうぶ)にこのことを伝えにいきまする」
「そうしてくれ、伊賀守」 
「なるべく早く戻りますゆえ、どうか、ご無理をなさらず、ご無事で」
 跡部信秋は一礼してから愛駒のところへ戻った。
「兄上、すべての味方を迎え入れ、南大門の入口を逆茂木で塞ぎました」
 信繁の報告を受け、晴信は次の策を伝える。
「よし! ならば、敵が現れる前に鬨(とき)を上げ、ここにわれらがいることを示すのだ!」
「御意!」 
 信繁が陣中を廻(まわ)り、各所で陣太鼓や鉦(かね)が打ち鳴らされ、将兵たちが鬨の声を上げ始めた。
 周囲に武田勢の鯨波が広がる。
 しかし、尼寺南大門の前に現れるはずの敵がいっこうに見当たらない。
 ――どうした!?……あれだけの勢いだった敵兵がだいぶ手前で足を止めたというのか?
 晴信が戸惑いの色を浮かべながら訊く。
「物見の報告は、まだか?」
「兄上、それがしが確かめてまいりまする」
 信繁が走り出す。
 しばらくしてから物見の伝令を連れ、戻ってきた。
「敵はどの辺りだ?」
 晴信の語気に、物見の伝令がたじろぐ。
「……そ、それが、だいぶ手前で敵兵の姿が消えまして」
「消えたとは、どういうことか?」
「……わかりませぬ。……とにかく周囲の道は入り組んでおりまして、そこに紛れ込んだのではないかと」
 物見の伝令が首を竦(すく)めながら答えた。 
 その会話を傍で聞いていた真田(さなだ)幸綱(ゆきつな)が近づく。
「御屋形様」
「何だ、真田」
「敵はかなり手前で南北に兵を分けたのではありますまいか。北側には国分寺を取り囲むように枝道がいくつも走っており、南側には旧街道もありまする」
「南北からここを挟撃するつもりかもしれぬと?」
「地勢を熟知している者ならば、われらから姿を隠すような経路も使えまする。いや……。しまった!」
 真田幸綱が強ばった表情で叫ぶ。
「挟撃ではなく、われらの眼を北西に向けておき、国分寺の廻りを囲むつもりかもしれませぬ。だとすれば、ここよりも僧寺の北側にある仁王門、南側の南大門が危のうござりまする。それに退路となる東側の国分八幡(こくぶはちまん)神社や八日堂(ようかどう)を押さえられたならば逃げられませぬ」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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