よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 それを見た屋代基綱が、再び槍を繰り出そうとした刹那だった。
 教来石景政が横槍を入れる。
「ぐわっ!」
 敵将が苦悶の声を上げながら槍柄を摑む。
 その喉笛に、小山田信有が狙い澄ました一撃を突き入れる。
 屋代基綱は血飛沫(ちしぶき)を上げながら馬の鞍(くら)から滑り落ちた。
「御屋形様!」
 教来石景政が主君を守るように愛駒を寄せる。
「大丈夫だ、景政。薄手の傷だ!」
 晴信は痛みに耐えながら答えた。
「それよりも、後ろが危うい!とにかく、眼前の敵を倒し、神川まで押し通るぞ」
「御意!」
 そう答えた教来石景政に加え、小山田信有が主君の両脇を固める。
 晴信が再び東に向かおうとした時、ひときわ大きな怒声が聞こえてくる。眼前の村上勢のさらに後方からだった。
 みるみるうちに村上の騎馬隊が算を乱し、南の千曲川沿いに逃げ出す。
 そして、晴信の視界に飛び込んできたのは、十曜紋(じゅうようもん)と月星紋(つきぼしもん)の旗指物だった。
 十曜紋は原(はら)虎胤(とらたね)の旗印、月星紋は飯富虎昌(とらまさ)の旗印である。蒼久保(あおくぼ)に出張っていた両隊が神川を渡って間一髪、本隊の救援に駆け付けた。
 武田家屈指の猛将に、いきなり背後から襲われた村上勢は抗(あらが)う術(すべ)もなく総崩れとなる。
 そのため晴信の眼前には退路が開けた。
「御屋形様、遅参をお許しくだされ!」
 原虎胤が吠(ほ)えながら駆け寄る。
 晴信の左腕から滴る血を見て、鬼美濃が眼を剥く。
「……ま、まさか、お怪我(けが)を?」
「案ずるな。大した傷ではない」
「申し訳ござりませぬ」
「いや、助かった。されど、悠長に構えている暇はない。西からも敵が来ている。信邦と真田が抑えに廻ったが押されている」
「ならば、儂(わし)と兵部が加勢に行きますゆえ、御屋形様は大屋(おおや)までお退きくださりませ。神川の畔で豊後殿が待っておりまする」
「室住(むろずみ)は無事か」
「少し兵は減らされたようにござるが、まだ四百以上はおりました。退路を守っておりますので、お急ぎくださりませ」
「わかった」
 晴信が頷く。
「兵部、まいるぞ!」
 原虎胤が飯富虎昌に声をかけ、愛駒を発進させた。
 晴信も旗本衆を率いて東へ走り始める。少し先で信繁が待っていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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