よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「兄上、ご無事で?」
「大丈夫だ。まずは神川を渡ろう。待っている室住の隊と合流し、そこで退いてくる将兵たちを待つ」
「承知いたしました」
 信繁は兄の負傷に気づいていたが、あえて何も言わなかった。
 晴信の本隊は神川の畔で室住虎光(とらみつ)の足軽隊と合流し、無事に渡河した。
 無傷で西へ向かった原虎胤と飯富虎昌の救援により、加藤信邦と真田幸綱の隊も最小限の被害で敵を撥(は)ね除(の)ける。増援に驚いた村上勢がいったん西側へ退いた隙に、武田勢の殿軍は神川へとひた走った。
 晴信は蒼久保で兵をまとめた後、後詰が待つ大屋へ撤退する。そこで更なる悲報を告げられた。
「……御屋形様、申し訳ありませぬ。……備前守(びぜんのかみ)殿を……お守りできませなんだ」
 打ち拉(ひし)がれた横田(よこた)高松(たかとし)が深々と頭を下げる。
 深手を負い、大屋に向かっていた甘利(あまり)虎泰(とらやす)が、途上で事切れてしまったというのである。しかも、虎泰のために楯となった初鹿野(はじかの)高利(たかとし)も討死していた。
「甘利だけでなく、伝右衛門(でんうえもん)までもか……」
 晴信は愁いに沈む。
 無念。
 それ以上の言葉はなかった。
 戦いが終わってみれば、討死は一千二百名にも及んでいた。
 その多くが上田原(うえだはら)で命を落としており、武田家の両職とまでいわれていた板垣(いたがき)信方(のぶかた)と甘利虎泰、重臣の才間(さいま)信綱(のぶつな)や初鹿野高利が含まれている。
 もちろん、力攻めに及んだ村上勢にも犠牲は出ていたが、自軍の被害よりは遥かに少ないようだった。
 これまで連戦連勝を続けてきた武田勢にとっては、信じ難い敗北である。
 もちろん、晴信にとっても痛恨の敗戦であり、初めて味わう屈辱であった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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