第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「何を申すか……。大事な家臣たちを討ち取られておきながら、そなたは甘んじて敗北を受け入れ、仇(かたき)も取らずに逃げよと余に申すのか?」
「逃げよとは、申しておりませぬ。今は潔く退き、改めて仇を討つ機会を窺(うかが)うべきと存じまする」
「まだ……完全に負けたわけではあるまい!」
「いいえ、すでにわれらは一敗地に塗(まみ)れ、大黒柱の重臣まで失い、将兵たちの士気は落ちておりまする。いまは家中の動揺を鎮め、捲土重来(けんどちょうらい)を期すべきではありませぬか!」
信繁は震えを抑えながら声を振り絞る。
その言葉を聞き、晴信は眼を閉じて天を仰ぐ、それから、苦吟を漏らす。
「……黙れ」
眼を開け、信繁を睨(にら)みつけた。
「ええい、黙らぬか!」
兄の鋭い視線を真っ直ぐに受け止めながら、信繁が答える。
「いいえ、黙りませぬ」
「いくら弟とはいえ、それ以上の差出口(さしいでぐち)は許さぬぞ!」
怒りに任せ、晴信は床几から立ち上がる。
「わかっていただけませぬか。……いや、そこまで強情を張られまするか」
信繁は軆を固くしながら、兄の両眼を見つめ返す。
「……わかりました。ならば、兄上はここにお残りくだされ。どうであれ、それがしは家臣たちの亡骸(なきがら)を諏訪へ運ばせていただきまする。それについては、異論ござりませぬな、兄上!」
弟の信繁がこれほど強硬に逆らうのは、初めてのことだった。
少し驚きながらも、晴信は突き放すように呟く。
「……そなたが……どうしてもそうしたいと申すのならば……勝手にいたせ。……止めは、せぬ」
「わかりました。では、失礼いたしまする」
深々と頭を下げてから、信繁は床几から立ち上がる。
その足で加藤信邦のところへ向かった。
「駿河守殿」
信繁が声をかける。
加藤信邦の官職は駿河守だったが、板垣信方と同じ官職であったため、これまでは自らその呼称を武田家中で封じてきた。
重臣筆頭であった信方に敬意を払い、当人が譲ってきたのだが、今回の討死を機に誰が始めるともなく、加藤信邦を官職名で呼ぶようになった。
駿河守の呼称は、それだけ家中で重く見られていたということである。
「典厩(てんきゅう)様、いかがなされました?」
加藤信邦は怪訝な顔で訊く。
典厩とは左馬助(さまのすけ)という官職の唐名であり、信繁は元服した時に御一門衆筆頭として従五位下の位階とこの官職を叙爵していた。
「今しがた兄上とお話をし、それがしが家臣たちの亡骸を諏訪へ運ぶお許しをいただいてきました。しばらくの間、小荷駄隊をお借りいたしまする」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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