第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「さようにござりまするか。典厩様、護衛は誰が?」
「これまで輜重(しちょう)を担い、諏訪との往復をしてきた真田に頼もうと思っているのだが」
「かの者ならば適任にござりましょう」
ひと呼吸おき、加藤信邦は恐縮しながら訊く。
「……ところで、御屋形様の御様子は、いかがにござりましたか?」
「兄上は……」
信繁は遠く空を眺めるように視線を上げる。
「……相当、意固地になっておられる」
「まだ御帰還は、なさらぬと?」
「それがしも小県からの撤退を進言してみたが、今はここに留まり、武田の土性骨を村上に見せつけることが重要なのだと申された」
「さようにござりまするか……」
加藤信邦が肩を落としながら俯(うつむ)く。
この重臣をはじめとし、将兵たちのほとんどが滞陣し続けることに疑念を抱いていた。
しかし、それを公然と口にできない重苦しさが陣中に蔓延(まんえん)している。
「おそらく、兄上の胆力をもってしても、眼前の出来事をまっすぐ受け止めきれずにおられるのであろう。それは、この身とて同じだ。まだ負けを認めたくない気持ちが心のどこかにあり、わが軍勢の惨状から眼を背けたくなってしまう。されど……」
信繁は眼を閉じ、右手の拳を握り締める。
己の心中で何かを確かめているような仕草だった。
「……されど、それではだめなのだ!」
眼を見開き、はっきりと言葉にする。
「眼前にある惨状を見つめねばならぬ! こたび、われらは両職という大きな柱を失ってしまった。残った家臣たちは大きな失意に押し潰されそうになっており、覇気そのものを根こそぎ奪われようとしている。ここは潔く退き、一刻も早い家中の立て直しが必要だ。いつまでも片意地を張っている場合ではなかろう。誰かが兄上の背を押さねばならぬのだ!」
信繁は己に言い聞かせ、決意を秘めた眼差しを加藤信邦に向ける。
――兄上を諫(いさ)められるのは、この身しかおりませぬ。
そんな意志が双眸(そうぼう)に宿っていた。
それを見て、加藤信邦が何度も頷く。
「お手伝い、させていただきとうござりまする」
「頼りにいたしまする。それがしに少し考えがあるゆえ、まずは諏訪へ。駿河守殿は鬼美濃や飯富らと話をし、評定衆の意見をとりまとめておいてくれませぬか。若い者たちの動揺を抑える役目は、教来石に頼んでありまする」
「承知いたしました」
「では、すぐに出立いたしまする」
「お気をつけて」
「兄上をお願いいたしまする」
信繁は諏訪へ向かうための支度に走った。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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