第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
夜更け過ぎに、今井信甫は十数名の供を従え、甲斐の府中へと向かった。
翌日から信繁は神長官の守矢信実と一緒に神葬祭の準備に奔走する。
駒井政武は下諏訪へ移動し、周囲の警戒に当たりながら今井信甫の帰りを待った。
その頃、晴信は大屋の対岸にある本陣御座処に籠もっていた。
――あの日から、ずっと胸の裡(うち)でざわつきが続いている。しかも、信繁が諏訪へ行ってから、それがひどくなった。情けなや……。
晴信は大きな溜息をつく。
――おそらく、信繁が申したことが正しいのであろう。されど、理では正しいとわかっていても、まだ心が割り切れぬ……。
そう思いながら陣屋に籠もり、今回の戦を最初から思い返してみた。
これまでの局面の中で、己がどのように考え、どのように命を下し、どのような結果を迎えたのか、晴信はひとつずつ反芻(はんすう)する。
――そうしなければ、己がどこで選択を間違えたのかを知ることができぬ……。
その一念だけで、小県に留まり続けていた。
だが、考えれば考えるほど悔恨だけが大きくなり、理由のない不安だけが大きくなり、その重圧に押し潰されそうになる。
『あの時、先陣の将兵たちを本陣に戻しておけば』
『いや、もっと早くこの戦に見切りをつけるべきであったか?』
『そもそも玄冬の出陣が間違っていたのか?』
『出陣前から村上義清を甘く見てはいなかったか?』
『いいや、もとより己が敵(かな)う相手ではなかったのやもしれぬ』
虚しい自問自答が続く。
しかし、戦に「もしも」はない。「そうしていたら」も「かようにすればよかった」もなく、そこには取り返しのつかない結果だけが残っている。それが戦というものの本質であり、恐ろしさだった。
わかっていながらも、晴信は後悔を止められなかった。
胸の裡にどす黒い迷妄と悔恨だけが渦巻き始め、己の矜恃(きょうじ)さえも呑み込もうとする。
板垣信方と甘利虎泰をはじめとして将兵たちを失った痛手はあまりにも大きく、その現実の重さは、時が刻まれるごとに増してゆく。
とうてい晴信だけで背負いきれるものではなかった。
しかし、武田家の惣領として、武田勢の総大将として、その責任を取らなければならない。
気がつけば、そうした重圧に潰されそうな己だけがいる。
――たった一言……。
受け入れるべき言葉は、あとひとつしか残っていなかった。
敗北。
だが、その一言を、どうしても受け入れることができないでいる。
打ち拉(ひし)がれた己の姿を残った将兵たちに晒(さら)す勇気はなく、ただ陣屋に籠もって片意地を張る。そんな己の情けなさをわかっていながらも、晴信は凍りついたように動けなくなっていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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