第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
晴信は幔幕裡(まんまくない)に入り、信繁と一緒に使者と面会した。
「筑前、そして出雲。遠路、旁々(かたがた)、足労をかけた」
「ははっ」
「母上に諏訪へ参られるには及びませぬと伝えてくれ。晴信が諏訪へ戻る、と」
「ははっ」
「急かせてすまぬが、そなたらは府中へ戻ってくれ」
晴信に平伏してから、二人の使者は帰途についた。
「信繁、加藤。明日、この陣を引き払い、諏訪へ戻る。その前に将兵たちを集めてくれぬか。余の口から伝えたいことがある」
「承知いたしました」
信繁と加藤信邦は頷き、委細も聞かずに将兵たちを集めに走った。
集まった家臣たちの前に、晴信が進み出る。
そして、声を振り絞った
「こたびの戦は、余の不甲斐なさゆえ負けた」
その第一声に、将兵たちは息を詰める。
「余の大事な家臣たち、そなたらにとってはかけがえのない上輩、同朋(どうぼう)、身内、そして友を失ってしもうた。すべては……余が不甲斐ないせいである。許してくれ」
晴信が頭を下げる。
将兵たちの間から、すすり泣きが聞こえてくる。
「これ以上、小県に留まることはできぬゆえ、明日、諏訪へ帰還いたす。されど、余はこの悔しさを決して忘れぬ。奪われた家臣たちの雪辱は必ず果たす。皆には、その約束を果たすまで共に戦うてほしいと願う。以上である」
晴信は厳しい顔で前だけを見据えていた。
その面相からは憑物(つきもの)が落ちたように、どこか洗われたような色が浮かんでいる。
側に侍(はべ)っていた信繁はそれを見て、心底から安堵していた。
「信繁、助かった」
それだけを言い残し、晴信は御座処に戻っていった。
武田勢が小県に出陣してから一ヶ月強、そして、痛恨の敗北を喫した二月十四日から二十日余りを経て、晴信は諏訪へ戻る決意をした。
天文十七年(一五四八)三月五日、晴信が率いる武田勢は上原城へ帰還する。誰もが途轍もなく苦い想いを胸の裡に抱いていたが、下を向く者は一人としていなかった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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