よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 その姿勢をしばらく保ってから、手桶で湯を汲み、何度も軆に浴びせかけた。
 そして、熱さに慣れた頃、両足を湯に入れる。
「最初は、我慢あるのみ」
 肌に痛みを感じるほど、天然の涌湯は熱かった。
 信繁も兄の真似をして同じ要領で足を入れる。
「くっ、熱い」
 二人は我慢比べでもするが如く湯に軆を沈めた。
 しばらくすると温度に慣れ、心地良さが勝ってくる。
「信繁。大永元年(一五二一)の夏、東海一の弓取りと称されていた今川家の大軍が甲斐の南部へ攻め寄せたことがある。その話は、存じておるか?」
「はい。甘利に聞いた覚えがありまする」
「その時、母上は臨月を迎えており、板垣が護衛として要害山城でお守りしていたそうだ。そして、戦の最中(さなか)に母上が産気づき、急遽、板垣が産湯を探し、この涌湯に辿り着いたらしい。湯が冷めぬように何度も積翠寺とここを往復し、夜更け過ぎに母上の陣痛が始まり、難産の末、払暁を迎える頃に生まれたそうだ。その後、産着に包まれた余を最初に抱いたのは、父上ではなく板垣であったそうだ」
「まことにござりまするか?」
 信繁はその話を知っていたが、あえて初めて聞いたように振る舞う。
「初陣の後、ここの湯に浸かりながら、そのことを聞かされた。だから、この涌湯は余にとって特別の場所だ。それゆえ、そなたへの褒美とした」
「……有り難き仕合わせ」
 信繁は言葉を詰まらせる。
「板垣はその話をした後、何度も顔を洗い、眼を真っ赤にしていた。まるで泪でも堪(こら)えるようにな……。そして、こうも申していた。それがしは要害山城へ来ると、少し息苦しくなりまする、と」
 晴信は両手で顔に湯をかける。
「信繁、ここからは勝手に戯言(ざれごと)を呟くゆえ、黙って聞いてくれ。これは余の邪推に過ぎぬが、その時、板垣が御父上から命じられていたのは、母上の護衛だけではなかったのではないか。もしも、御父上が今川に負けるようなことになった時は、母上とこの身を敵の手に渡すな、とでも命じられていたのであろう」
 兄の呟きに驚き、信繁は眼を見開く。
 しかし、餒虎(だいこ)と呼ばれた父の信虎ならば、あり得ないことではなかった。
「だから、要害山城へ登ると、喉が締めつけられるように息苦しかったのやもしれぬ。それでも、板垣は母上や余を守り続けてくれた。……ところで信繁、母上に諫諍を頼んだのは、そなたなのであろう?」
「……はい。差し出がましい真似をして申し訳ありませぬ」
 信繁は正直に答える。
「謝るな。あれで余は救われたのだ。それに、母上にとっては余の想いに勝るほど板垣が大切な存在であったに違いない。片意地を張った余に対し、怒っておられる様が諫状の文面から滲み出ていた。そなたに頼まれ、母上も気持ちを抑える必要がなくなったのであろう。そなたが嫌われ役を引き受け、動いてくれたから余も気持ちを切り替えることができた。礼を言う」
 晴信は素直に謝意を言葉にした。
 ――やはり、兄上はすべてをわかっておられた。
 信繁は報われた気持ちになる。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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