よみもの・連載

信玄

第四章 万死一生(ばんしいっしょう)20

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 ――だめだ。我慢できぬ……。
 右手で口を押さえ、信繁は嗚咽(おえつ)を喉の奥へ押し戻そうとする。
 しかし、一度流れ始めた泪は止まらず、それにつれて、これまで抑えに抑えてきた感情が、胸の奥から一気に噴き出してしまう。
「我慢いたすな、信繁」
 晴信が優しげな泪声で言った。
「……兄上」
「ここはいくらでも哭(な)いてよい場所だと思うておる。板垣がさように教えてくれた」
「…………」
「だから、そなたもここでは憚る必要はない。甘利のために思いきり哭いてやれ。その泪に恥じるところなど、ひとつもあるまい。余も己の弱さを恥ずかしがらぬ」
 晴信は止めどなく流れる泪を拭いもしない。
「兄上……」
 それ以上、言葉にはならず、信繁は声を上げて赤子のように哭き始めた。
 弟が発する魂魄(こんぱく)の震えを感じながら、晴信も滂沱(ぼうだ)の泪を流し続ける。
 この時、二人はそれぞれの傅役(もりやく)、そして、師父を失ったことを初めて現実として受け入れなければならなくなった。
 四人だけが知る想い出の場所で……。
 兄弟の慟哭(どうこく)だけが湯気の中に響く。
 ――まずは、己の泪を許すことから始めよう。淀んだ悔恨の念を洗い流し、板垣のためにも再び立ち上がらねばならぬ。だから、今この時だけ、そなたのために哭くことを許してくれ、板垣……。
 その想いを魂に刻み、再起を図らなければならない。
 天文十七年(一五四八)、初めて味わった敗北の苦さに耐え、晴信は武田家の立て直しを目指さなければならなかった。

第四部 〈了〉

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number