よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「御屋形様も上原城へお入りになった頃かと。物見を出しまするか、豊後殿?」
 真田幸綱の問いに、老将が頷く。
「経路の確認も含め、二組を行かせよう。われらが動くのはまだ数刻後ゆえ、まずは腹拵えだ」
 足軽奇襲隊は天狗森に身を潜め、来たるべき時刻を待った。
 十八日の子(ね)の刻(午前零時)を越え、再び物見を出す。それから寅(とら)の上刻(午前三時過ぎ)まで待ち、一里(約四㌔)先の勝弦峠を目指して静かに移動を開始した。
 その頃、まるで呼吸を合わせたかのように、原虎胤と飯富虎昌の先陣騎馬隊が上原城の城門を開こうとしていた。
「派手な鬨(とき)はいらぬ。黙したまま駈歩(かけあし)で一気に勝弦峠を目指すぞ。皆の者、付いてまいれ」
 原虎胤は先頭に立ち、愛駒を発進させる。
 その背を追い、飯富虎昌を含む千五百の騎馬隊が駆け出す。上原城から勝弦峠までは諏訪湖の西側を通り、五里(約二十㌔)弱の距離であり、馬の駈歩ならば半刻(一時間)ほどで目的地へ到達することができた。
 上原城の殿主閣(てんしゅかく)から、晴信は騎馬隊の出陣を見つめていた。
 ――頼んだぞ、皆。これは武田の今後を占う一戦だ。
 ここに入ってから一度も軍装は解いていなかった。
「信房、われらも出陣の支度をするぞ」
 晴信は馬場信房に命じる。
「御意!」
「予定通り、われらの的は下社にいる仁科盛能だ」
 晴信も殿主閣から下り始めた。
 そして、寅の刻(午前四時)、小笠原本隊のすぐ背後まで迫った足軽奇襲隊がついに動く。
 敵陣は兵のほとんどが眠りこけているような静けさだった。
「行くぞ、皆の者! 派手に鬨の声を上げよ!」
 室住虎光が槍を振り下ろす。
「おおっ!」
 横田高松と真田幸綱が呼応し、気勢を上げた足軽隊が敵陣めがけて真っ直ぐ突っ込む。
 実際この時、小笠原長時をはじめとした将兵たちは奇襲があるなどとは考えてもおらず、見張番のわずかな者を除けば、ほとんどの者が軍装を解いて眠りこけていた。
 そこを襲われた小笠原勢は抵抗する術もない。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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