よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)3

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   五十

 天は黎明(れいめい)独特の藍色に染まり、地には朝靄(あさもや)が立ち籠めている。
 間もなく払暁を迎える川中島(かわなかじま)、犀川(さいがわ)の南岸に武田菱(びし)の旗幟(きし)が林立していた。
 ――これが川中島の際(きわ)、犀川か。
 晴信は腕組みをし、周囲を眺め渡す。
 そこは北国(ほっこく)街道の丹波島(たんばじま)宿と呼ばれる場所だった。
 渡し場のひとつがあり、善光寺の門前へと続いている。半里(二㌔)ほど先には、市村(いちむら)の渡しもあり、丹波島宿は交通の要衝となっていた。
 ――湿地特有の朝靄がかかっている。されど、陽が昇れば、風向きが変わり、すぐに対岸が露(あら)わになる。さすれば、昌信(まさのぶ)が籠もる旭山(あさひやま)城とやらも見えてくるであろう。
 晴信は咫尺(しせき)も定かならぬ対岸を見据えた。
 そこに、息子の武田義信が近づいてくる。
「父上、思いの外、朝靄が深くはありませぬか。対岸がまったく見えませぬ」
「さようだな」
「この靄では敵の接近がわかりませぬ。いつ晴れるのでしょうか?」
 息子の義信は不安そうに訊く。
「義信、あれを見てみよ」
 晴信が空を流れていく薄い雲を指す。
「あの雲が何か……」
「あれは霞雲(かすみぐも)だ」
「かすみぐも?」
「払暁の霞雲は、旱(ひでり)の徴(しるし)と呼ばれている。それゆえ、黎明が煙ったような靄や霞に覆われる日は、午(ひる)過ぎから晴天となることが多い。天候に敏感な農夫たちから聞いた話だ。憶えておくがよい。天の気がいかに動くかということを知ることは、兵法の要諦のひとつでもある。戦場(いくさば)では常に空を見て、天候を予測し、策に活かさねばならぬ」
「はい。覚えておきまする」
「旱雲の下に水辺があると、地上には厚い靄が立ち籠める。されど、この朝靄は陽が東の山間(やまあい)から顔を出せば、すぐに消え去る。風が西から東へ吹き、水面の上を渡っていくからな」
「まことにござりまするか」
「まあ、見ておれ」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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