第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)3
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
そのまま二人は陽が昇る様を見つめていた。
すると、晴信が言ったように、東の山間から陽が昇り始めると、犀川の上に溜まっていた朝靄が東の方角に流れていく。
あっという間に視界が開け、対岸の様子がはっきりと見えてきた。
「義信、武将が知らねばならぬのは、天の気だけではない。地の勢を摑(つか)み、人の智を司(つかさど)り、戦の神算を重ねなければならぬ」
「はい」
「新しき旗を作るのがよいかもしれぬな」
晴信はふと脳裡(のうり)に浮かんだことを口にする。
「旗、にござりまするか?」
「さようだ。一目で武田が来たとわかるような旗幟だ」
顎を撫(な)でながら、晴信はしばし思案する。
その横顔を、義信はじっと見つめていた。
「その疾きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し、知り難きこと陰の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し、郷を掠(かす)めて衆を分かち、地を廓(ひろ)めて利を分かち、権を懸けて動く」
晴信は静かな口調で吟じる。
「孫子(そんし)の兵法第一の軍争篇にござりまするか」
「さようだ。美しき韻律がありながら、その内容は苛烈(かれつ)にして、戦の真髄。これほど、われらの軍勢にふさわしい一節もなかろう」
晴信の脳裡には、金泥(きんでい)の文字が黒地旗に認(したた)められた旗指物(はたさしもの)が思い浮かんでいた。
――孫子の兵法を記した新しい武田の旗幟。……父上はさようなものを考えておられるのか。
義信は感心したように何度も頷く。
辺りの朝靄は、すっかり晴れていた。
「あれが、わが楔城(くさびじろ)のある旭山か」
晴信が北西にある山陰に眼を移す。
その麓には裾花川(すそばながわ)が流れ、犀川と交わっている。
――旭山城は善光寺平に打ち込んだ一本の楔だ。そして、南岸には、われらの本隊がいる。さて、景虎よ。互いの境界は、余が引いてやったぞ。この戦構えに対し、どう動いてくる。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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