よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「ああ、確かに。相手の武田晴信が最もお嫌いになる手を使うてきましたからな。しかも、蠅(はえ)取り蜘蛛(ぐも)の如く裏切者の二人を絡め取り、別々の場所で籠城させた。忌々しいこと、この上なし。御屋形様でなくとも、怒り心頭に発するのでは」
 実乃がまじめな面持ちで答える。
「まあ、確かにな」
 定満が小刻みに頷く。
「なれども、かような時の御屋形様ほど、恐ろしき武将はおりませぬ。黒田(くろだ)秀忠(ひでただ)の討伐を思い出しませぬか。あの時も、こたびと同じ気配にござった。己が裡(うち)に滾(たぎ)る溶岩の如き怒りをそのまま戦いにぶつける時、御屋形様には微塵(みじん)の慈悲もありませぬ。怒髪天を衝(つ)く毘沙門天王様の如く」
 実乃の言葉を聞き、二人は黒田秀忠の討伐で荒ぶるままに敵陣を一騎駆けした景虎の姿を思い出していた。
 ──美作もこたびの戦が荒れることを恐れているのやもしれぬ。若殿のご機嫌次第で合戦の様相が変わってしまうのは、われら越後勢の弱点となりかねぬ。評定の内容いかんでは、諌言(かんげん)に及ばねばならぬか……。
 宇佐美定満が顔をしかめ、腕組みをした。
 そこに、柿崎景家が歩み寄る。
「皆様方、お揃いで何を難しき顔をなされておりまするか?」
「和泉守(いずみのかみ)、そなたは若殿のご機嫌をどう見ておる?」
 定満の問いに、柿崎景家が怪訝(けげん)そうに答える。
「いつもと変わらぬ御様子かと」
「ほう、そなたにはさように映るか」
「武田晴信に苦々しい思いを抱いているのは確かと存じますが、さような私情に軍略を左右されるような御屋形様ではありますまい。こうして実戦の場に臨み、冷静に戦い方を見極めておられるのでは」
「なるほど。そなたがさように申すならば、取り越し苦労やもしれぬな」
 微(かす)かな笑みを浮かべ、宇佐美定満が景家の肩を叩(たた)く。
 宇佐美定満は今年で齢(よわい)六十八となり、長らく長尾景虎の家宰を務めてきたが、さすがに高齢となったため、今は齢四十八の直江景綱に役目を譲っている。
 一方、軍師を務める本庄実乃は齢四十六、齢四十四の柿崎景家は家中一の武辺者と称えられており、名実共に越後勢の武の要となっている。
 齢二十七になった長尾景虎を中心にして、越後勢の重臣たちは家中に重しのきく世代に跨っていた。
 くしくも重臣たちが集まった処へ、満面の笑みを浮かべた若武者が走ってくる。
「お歴々の皆様方、評定の席へ。御屋形様がお呼びにござりまする」
 この年で齢二十五となった甘粕景持だった。
「さようか。では、まいりましょうか」
 直江景綱が移動を促す。
「景持、そなたは相変わらず締まりのない面をしておるの。へらへらしおって」
 宇佐美定満が顰面(しかみづら)で言う。
「へらへら?」
 甘粕景持は狐につままれたような面持ちになる。
「……またまた。これは、菩薩の笑みにござりまする、宇佐美殿。御屋形様がおまえは笑みを絶やさぬところが菩薩のようで良いと仰せになられましたゆえ」
「莫迦を申せ! どこが菩薩の笑みなものか。どこからどう見ても、締まりのない小童(こわっぱ)の顔ではないか」
「またまた、宇佐美殿ぉ。最近では御屋形様に似てきたと皆が噂しているとか」
 甘粕景持は屈託のない笑顔で頭を搔く。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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