よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)4

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 景虎が向かった丹波島の北岸では、御貸(おかし)具足をつけた足軽たちが集まり、槍で生い茂った青蘆(あおあし)を薙(な)ぎ倒し、向こう側に目を凝らしている。対岸は武田勢の先鋒(せんぽう)が布陣する場所であり、越後勢と犀川を挟んで睨み合いを続けていた。 
 そして、陣の兵たちが集まっていたのは、対岸に奇妙なものが立てられていたからである。
 それは墨蹟(ぼくせき)が認められた大旗だった。
 しかも四竿が横に並んでいる。
「あれは何と書いてあるだがや」
 年輩の足軽が対岸に眼を凝らして呟く。
「わからねぇ」
 後ろから付いてきた若輩の足軽も槍を振りながら相槌(あいづち)を打った。
「吾作(ごさく)の奴が昨日の朝にはなかったと言ってただ。戦はしたぐねえけども、何やら話の種に敵の大将を拝んでから帰りてえもんだなや」
 年輩の足軽は半笑いで答えた。
 こうした先陣の足軽たちは、ほとんどが半農半兵の百姓である。なるべく戦闘を避け、戦のみやげ話だけを持って無事に里へ帰りたいと願っているようだ。
 その時、したり顔で話をしていた足軽の間に、すっと軍扇(ぐんせん)が差し込まれる。
 二人が舌打ちをしながら胡乱(うろん)な眼差しを向けて振り向くと、そこにはすらりとした美装の武将が立っていた。
「ま、まさか……」
「お、お、御大将……」
 年輩の足軽が後退りしながら絶句する。若輩の足軽は総大将の闘気に当てられたように思わず尻餅をついた。
 それを一瞥(いちべつ)しただけで、景虎は無言のまま川縁に向かって歩いてゆく。
 二人は陣羽織の背に金糸で刺繍された九曜巴(くようともえ)の紋を呆然(ぼうぜん)と見つめていた。
「……か、景虎様じゃ! 御大将のお目見えじゃ!」
 年輩の足軽が我に返り、素っ頓狂な声で叫ぶ。
 すると、集まっていた衆が次々と振り返り、総大将の姿をみとめて後退りする。足軽の集団が、一瞬で左右真っぷたつに割れる。
 長尾景虎はその間をゆっくりと進み、後ろから鬼小島弥太郎と甘粕景持が追いかけてくる。
 先陣の足軽たちは立ちすくんだまま、目を丸くしてその様子を見ていた。何の前触れもなく、総大将が最前線に現れることは異例の出来事だった。
 それでも、景虎は周囲の反応をまったく意に介さず、無言で犀川の畔(ほとり)に佇(たたず)み、対岸を見つめる。
 大旗に記された大きな墨文字を、眼を細めて睨(ね)めつける。
『疾如風』 
 疾きこと風の如く。
『徐如林』
 徐(しず)かなること林の如く。
『侵掠火如』
 侵掠(しんりゃく)すること火の如く。
『不動如山』
 動かざること山の如し。
 武田勢が掲げた孫子(そんし)の大旗だった。
 それを中心に、敵は見事な鶴翼(かくよく)の陣を布いていた。
 ──いつでも渡河してこいということか。
 景虎の頰が強ばり、全身から闘気が迸(ほとばし)る。
 その時、対岸から声が上がった。
「♪我は生涯、女人(にょにん)を不犯(ふぼん)。ゆえに不覚をあらしめ給(たま)うな。長い尾っぽの日蔭虎(ひかげとら)。さても奇態な色若衆。戦仕立ては、神頼み」
 敵方の足軽が節をつけて罵詈雑言(ばりぞうごん)を投げつけてくる。
 それが川中島一帯にこだました。
 景虎は鶴翼の陣の最奥を凝視する。
 そこから、ひときわ強い気が立ち昇っているような気がしたからだ。
 ──武田晴信、うぬもそこにおるか……。わざわざ先陣まで出て、孫子を騙(かた)る不届者め。毘沙門天王様の通力(つうりき)をもって成敗してくれる。首を洗って待っておれ!
 踵(きびす)を返した景虎は無言で愛駒のところへ戻り、あえて何事もなかったような面持ちで本陣へ帰った。
 しかし、その心奥では瞋恚(しんい)の焔(ほのお)が燃えさかっていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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