よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「越後勢の本隊!?……まことにござりまするか?」
「ああ、先頭を切ったのが先陣大将の柿崎景家ゆえ、間違いなく、その後方には長尾景虎がいたはずだ。あれは単なる奇襲ではなく、総力戦をも辞さぬ構えであったような気がしてならぬ」
「それほどの奇襲でありましたか。ご無事で何より」
 隻眼(せきがん)の老将は顔をしかめながら言う。
「されど、兄上の案じた策を台無しにしてしまった」
 信繁が苦い表情で口唇を嚙む。
 これが天文二十四年(一五五五)七月十九日のことだった。
 越後勢急襲の一報は晴信にも届けられ、すぐに大堀館で軍(いくさ)評定が開かれる。
 信玄は並んだ重臣たちを見回してから、重々しい口調で信繁に訊く。
「典厩、そなたともあろう者が、余の命を守れぬとは、いったいどうしたのだ。何があったのか、皆に説明してくれぬか」
「……承知いたしました」
 信繁は伏し目がちに頭を下げる。
「まずは敵の渡河に対し、われら先陣が策通りに動けなかったことを深くお詫びいたしまする」
 もう一度、深々と頭(こうべ)を垂れてから、越後勢が渡河してきた様子を詳しく語り始める。
「……敵が動いてきましたのは、午飯時のすぐ後であり、正直に申せば、われらも白昼の渡河などあるまいと油断しておりました。夏場の水涸れにより、犀川の水位はさほど高くなく、気がつくと敵の先鋒は一気に川中を進んで参りました。その疾さに度肝を抜かれたのは確かにござりますが、それだけではなく、対岸に夥しい数の旗幟が見えており、つまり、その……長尾景虎の本隊が控えているような気配を感じました。……それゆえ、川を渡らせてしまえば危ないと思い、つい、われらの騎馬隊も川中へ入り、敵の先鋒を押し戻そうとしてしまいました。当然のことながら、敵をこちらの岸へ呼び込んで討ち取る策はわかっておりましたが、あの時は、それが適(かな)わず……」
 最後は言葉を濁し、信繁が俯(うつむ)く。
「景虎の本隊までを岸に上げたのでは、本陣まで貫かれるやもしれぬという危惧を抱いたということか?」
 晴信が珍しく不機嫌な声で訊く。
「……はい、さようにござりまする」
「敵の先陣が猪武者の柿崎であり、そなたの申すが如く、一気に川を渡ろうとしたことは容易に推し量れる。されど、景虎の本隊までが渡河を狙っていると判断したのは、少しばかり早計ではなかったか、典厩」
「申し訳ござりませぬ。早計でなかったとは、断言できませぬ。されど……」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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