よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)5

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 犀川での対陣が長びき始めてから、晴信は己の面目を保ちつつ、和睦へと持ち込む手立てを探ってきた。その中で今川義元を動かす策に思い至ったのである。
 ――戦というものは、やはり、生き物だ。始まった当初は、かような有様になるとは思っていなかった。それは景虎にしても同様であろう。まあ、北信濃(きたしなの)に犀川という一線を引き、そこまでを武田の領分と知らしめたことは確かだ。それで満足するしかあるまい。
 晴信はそう思いながら、再び軆を起こして胡座を搔いた。
 その翌日、武田勢に朗報が届く。
 長尾景虎は出陣に際し、越中(えっちゅう)と加賀(かが)の一向一揆(いっこういっき)に対する抑えとして越前(えちぜん)の朝倉(あさくら)宗滴(そうてき)に出兵を願っていた。宗滴は朝倉家随一の剛将だったが、なんと加賀への出陣中に亡くなってしまったのである。
 これにより、越中への備えが一気に危うくなった越後勢も、今川家の仲介を受け入れざるを得なくなり、和睦の話は一気に進む。
 晴信は重臣たちを集め、評定でこの件を発表する。
「昨夜、閏十月の十五夜をもって越後との和睦が為(な)った。駿河の今川義元殿が仲介してくれた和約ゆえ、粛々(しゅくしゅく)と進めねばならぬ。ついては犀川を双方の境とし、旭山城を破却し、代わりに越後が裾花川対岸に築いた葛山城を破却する。戦の内容は不本意であったが、われらは善光寺平において犀川の以南をすべて掌中に収めた。これをもって、こたびの戦を終わらせる」
 和睦の条件としては、武田家が須田(すだ)、井上(いのうえ)、島津(しまづ)など北信濃国衆の旧領復帰を認めることになっていたが、それはさしたる問題ではなかった。
 この間、晴信はすでにいくつかの城を修築する策を練っていた。
 その最初が、松代(まつしろ)にある海津(かいづ)城だった。
 それが旭山城の代わりとなり、晴信は香坂(こうさか)昌信(まさのぶ)を城将に抜擢(ばってき)し、山本菅助に普請奉行を任せるつもりだった。
 そして、もうひとつ。越後勢がまったく気づかない戦果があった。
 善光寺別当職の栗田(くりた)寛久(かんきゅう/鶴寿〈かくじゅ〉)が旭山城へ籠もる際に、寺院の宝物(ほうもつ)を持ち出していたのである。
 善光寺は起源からして謎が多く、本尊とされる阿弥陀三尊(あみださんぞん)像は絶対秘仏とされ、その姿は住職ですら目にすることができないとも言われていた。
 しかし、そのことが逆に評判となり、日の本全土から阿弥陀如来を信奉する者たちが集まり、善光寺は古くから阿弥陀信仰の聖地とされてきた。
 絶対秘仏の阿弥陀三尊像をめぐる善光寺の起源には、いくつかの伝説があるのだが、共通しているのは、それが太古の出来事であるということだった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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