よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 景虎の魂魄(こんぱく)に、老師の言葉がゆっくりと沁(し)みてゆく。
『御師様、わかりました。されど、あとひとつだけ、お訊ねしてもよろしいでしょうか?』
『何なりと』
『俄城主といえども、武門に戻れば合戦に出ることになりまする。一度は御仏(みほとけ)に帰依(きえ)したこの身が殺生を伴う場に出てもよいのでありましょうか?』
『還俗すれば、すぐに元服を済ませ、初陣とあいなるであろうな。怖いか、虎千代?』
『……恐れを感じないと申せば、嘘をつくことになりまする』
『さようか……』
 老師が静かな笑みを浮かべる。
『わしが見たところ、そなたは禅の修行よりも、馬術や兵術の稽古の方が向いておるように見えたがな。あれらの実践はなかなかに見事なものであったぞ。そなたには天賦(てんぷ)の武才があると思うのだが』
『まことにござりまするか?』
『ああ、まことだ』
『されど、おそらく実戦は違いまする。稽古で学んだことが、どれほど戦場(いくさば)で通用するものか、わかりませぬ。されど、それよりも本当に戦場で殺生などしてもよいのかということに悩みまする』
『さようか。実は、わしにも戦のことがよくわからぬ。この老いぼれは僧門しか知らずに生きてきたからの。しかれども、仏の世界にさえ降魔(ごうま)の武神がおり、暴れる鬼神どもを鎮めておる。戦いが必ずしも悪ということにはならぬが、大義によらぬ戦いをすれば、それは畜生の食合いと同じになる。だが、破邪(はじゃ)の剣を振るえば、世のための戦いになるということもあるのであろうな。ある戦いが善か、悪か、ということではなく、戦いの中には常に善悪や正邪が入り乱れておるということなのかもしれぬ。そこには、残念ながら殺生も含まれておる。……いや、やはり、わしには戦のことを語る資格がない。後は、そなたがその眼で判ずればよい。依怙の戦いと大義の戦いの違いをな』
 老師の言葉を反芻(はんすう)し、景虎は何度も頷(うなず)いた。
『そこで、武門へ戻るそなたへ、ささやかな餞別(せんべつ)を渡しておこうと思う。立派な太刀など贈れぬゆえ、これから五壇護摩(ごだんごま)の行を授けるとしよう』
 天室光育が言った五壇護摩の行とは、五つの護摩壇に火を入れ、五大尊明王(みょうおう)たる不動明王、隆三世(ごうざんぜ)明王、軍荼利(ぐんだり)明王、大威徳(だいいとく)明王、金剛夜叉(こんごうやしゃ)明王を勧請し、 己の恐れや迷い、煩悩などを護摩木に託して焼いてしまう荒行である。
 この祈禱(きとう)を済ませば、己の裡に潜む邪気を焼きつくし、五大尊明王の御加護を受けることができるようになるとされていた。これは天台密教の秘儀で、朝廷が幕府の戦勝を祈願する時に行われるものである。
 天室光育は曹洞(そうとう)宗の禅師でありながら、密教や兵法にも通じている稀有(けう)な存在だった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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