よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 この八月に、大熊朝秀は武田家と内通し、越中の一向一揆勢を率いて越後へ攻め入る。会津の蘆名盛氏もこれに呼応し、家臣の小田切安芸守(おだぎりあきのかみ)を越後へ派遣した。
 春日山城へ戻ったばかりの長尾景虎は、上野家成と庄田定賢らを出陣させ、頸城郡駒帰で迎え撃つ。
 結果としては、一向一揆勢と蘆名勢は敗走したが、大熊朝秀は一揆の残党を率いて越中に残った。
 越後と越中の国境に火種は残り、景虎の眼がそちらに向いている間に、真田幸綱は春山城に攻め寄せ、高梨勢の城将であった今清水(いましみず)太郎次郎(たろうじろう)を討ち取る。
 これにより松代から越後勢を駆逐し、武田が覇権を手にした。
 しかし、晴信の策は、これで終わらなかった。
 年が明けた弘治三年(一五五七)二月、富倉(とみくら)峠や妙高(みょうこう)が積雪で閉ざされ、越後勢が動けなくなったことを確かめてから、真田幸綱に出陣を命じる。標的としたのは、春山城から北東に四里(十六㌔)ほど離れた桝形(ますがた)城(山田要害)である。
 真田幸綱が三千の兵を率い、桝形城を囲んで降伏を勧告すると、高梨勢の城将であった山田(やまだ)左京亮(さようのすけ)と木嶋(きじま)城の木嶋出雲守(いずものかみ)は呆気(あっけ)なく武田家への臣従を申し出た。
 一兵も失わずに桝形城を奪取した真田幸綱は間髪を容(い)れず、善光寺の西にある葛山(かつらやま)城へ攻め寄せる。誘降を持ちかけられた城将の落合(おちあい)備中守はこれを拒否して討死したが、葛山衆の多くは武田に降(くだ)った。
 二月十二日に出陣した真田幸綱は十五日までに電光石火の如く三つの城を落とし、これを晴信に報告する。
 ――内訌に嫌気がさしたから出家だと? 半端な覚悟で人の上に立ち、寝ぼけた世迷言(よまいごと)をほざいているゆえ、かような羽目に陥るのだ。越後の息がかかった者どもをすべて信濃から追い出すまで、余は手を緩めぬ。
 そう思いながら、晴信の眼差しはさらに北へ向いていた。
 今回の真の標的は、長尾景虎の叔父である高梨政頼の中野小館(なかのおたて)と詰城の鴨ヶ嶽(かもがたけ)城だった。
 晴信の下知により、真田幸綱は三月中旬に山田左京亮と木嶋出雲守を先鋒(せんぽう)とし、高梨政頼の本拠地、中野へ攻め入る。
 鴨ヶ嶽城では敵の攻撃を凌(しの)ぎきれないと見た高梨政頼は、さらに北側の飯山(いいやま)城に籠もり、景虎に援軍を願った。
 真田幸綱は飯山城に迫るが、高梨政頼もしぶとく籠城を続ける。
 その状況を知った晴信は、甘利(あまり)昌忠(まさただ)を援軍として派遣した。 

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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