連載
moving
第二話 彼女の知らない駅で加藤千恵 Chie kato

「畠山さんね」
「そうそう、畠山さん」
「悪くなかったんだけどね、確かに」
 答えつつ、一人で藤屋不動産を訪れたときの畠山さんの表情を思い出す。やっぱり別のエリアで探そうと思うんです、と言ったとき、彼女は一瞬驚いて、でもそれから、なぜか微笑んだのだ。わたしの胸中を知るはずもなかったのに。
 決まりかけていたのにすみません、と謝るわたしに、畠山さんは、いいえー、全然、と言ってくれた。
「わたしも昔、直前でキャンセルしちゃったことあるんです。富山さんとは比べられないくらい、話が進んでたので、結構面倒なことになっちゃって、周囲の方には申し訳なかったんですけど、でも、今の住まい、気にいってます。いい物件見つかるといいですね」
 そう話してくれた畠山さんの言葉は、なんとなく、朋香には伝えなかった。ためらわずにキャンセルしたのかとか、細かないきさつを聞きたい気もしたけど、わたしにはできなかった。おそらく朋香だったら、どうして? と訊ねていただろう。
「しかも和室でしょ? つらくない?」
「和室、好きだから。住みやすそうだよ」
「そうかなー」
 納得できていない様子がふんだんに滲んだ声だ。あと二週間ほどで、こんなふうに不満げな声を聞くこともめったになくなるのだな、と思うと、一瞬にして涙が出てきそうになったので、慌てて思考を別の場所にうつした。
 わたしの手元には、二つの段ボール箱がある。それぞれの物を詰めていくつもりで用意したのだが、スペースを埋めていくのは、朋香用のものばかりだ。テレビの周囲に置かれた、着火する予定のなさそうなフルーツを模したキャンドルや、どこかの国のお土産としてもらったというピルケースや、二匹の鹿が中でたわむれているスノードーム。
 テレビは持っていっていいよ、と言われている。彼氏の家に既にあるからだろう。新居には大きすぎる気もするし、ほとんどテレビは見ないのだが、持っていくつもりでいる。
 新しい部屋で、ここから持っていくテレビをつけて、わたしは繰り返し思い出すのだろう。予定のない休日に、朝から晩まで借りてきたDVDを二人で見て過ごしたこと。あまりにお互いの映画の好みが違いすぎて驚いたこと。あまりにも輝いている、どうということのない一日の記憶を、わたしはいくら支払われても手放したくないと思う。
 浸るための記憶ならいくらでもある。朋香が作ったカレーが辛すぎて、二人で涙ぐみながら、でもそれがおもしろくなって笑いながら食べた日。お互いの服を貸し合って、全然似合わないねと大笑いし合った日。この空間で積み重ねてきた、ささやかで地味で、なによりも尊いものたち。
「古いとこだけど、たまには遊びに来てよ」
 まだすねているのか、わずかに口をとがらせている朋香に声をかける。
「絶対行く。っていうか合鍵ちょうだい」
「なんでよ。あげないよ」
「えー、けち。寂しいー」



       8  次へ
 
〈プロフィール〉
加藤千恵
1983年北海道生まれ。立教大学文学部日本文学科卒業卒業。
2001年、短歌集『ハッピーアイスクリーム』で高校生歌人としてデビューし、話題に。短歌以外にも、小説、詩、エッセイなど、さまざまな分野で活躍。
主な著書に『ハニー ビター ハニー』『さよならの余熱』『あかねさす――新古今恋物語』『その桃は、桃の味しかしない』など。
Back number
第二話 彼女の知らない駅で
第一話 北欧まで何マイル