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第二話 彼女の知らない駅で加藤千恵 Chie kato

 寂しいのはわたしのほうだよ、と、声に出さずに言い返す。わたしの心を知るはずもなく、朋香はさらに言う。
「わたしはこんなに麻理恵を好きなのに、つれないよねえー」
 歌うみたいな言い方だ。
「なに言ってるの」
 軽くたしなめた。
 違うよ、と思った。口に出すのが朋香のほうだというだけだ。寂しいのも、好きなのも、わたしのほうがよっぽど思っていることだ。ずっと。出会った直後から。
 このリビングで、酔っぱらって眠りこけた朋香の姿を、何度となく目にした。そのうちでただ一度だけ、キスをした。
 唇が異様に柔らかかったのは、女の人のものだからなのか、朋香のものだからなのか、わたしには判断できなかった。今のところ、人生における唯一のキスだから。
 同じ部屋で過ごした一年半、わたしは朋香のことばかり考えていた。朋香がいてもいなくても、ずっと存在を意識していた。出会ってからずっとだ。からめとられているみたいだった。まぎれもなく幸福だった。できるなら、この空間の中だけでずっと生きていたいと思えるほど。
 けれど、この部屋を出なければいけない。
 畠山さんが紹介してくれた三つの部屋は、どれも予算内におさまっていたし、条件としては悪くなかった。いずれもフローリングだった。朋香がそう希望を伝えたから。
 朋香が彼の部屋に出かけた日、唐突に、だめだ、と思った。このまま近くに住みつづけたら、どこにも行けなくなると感じた。恐怖といっては大げさだけれど。
 衝動的、というのは、あの日のわたしの行動を指すのだろう。会社の最寄り駅につながる路線の電車に乗り、適当なところで降りた。会社から四駅離れた場所だった。今まで車内アナウンスで駅名だけは耳にしていた。実際に降りたのは初めてだった。
 目についた不動産店に飛びこみ、予算を伝えた。今住んでいるところよりも平均家賃が高く、フローリングは難しいと言われた。そのときはじめて、自分がフローリングの部屋を求めていたわけじゃないのだと気づいた。
 来月から、わたしは一人で暮らす。一人暮らしは初めてじゃないけど、初めてみたいな気がしている。
「何かあったら泊まりに行くね」
「いきなり来られても困るから予告してね」
「麻理恵ってば、なんかあれじゃない? 他人なんとか」
「他人行儀?」
「それ! それ! タニンギョーギ」
 知らない外国語の単語みたいに聞こえるのはどうしてだろう。思わず笑うと、なんで笑ってるのー、と朋香はまたも不満げに言う。
「たまにならいいよ」
 本当は、毎日だっていい。来てほしい。
 朋香は、けちー、とまたしてもさっきと同じことを言う。
 新しく住むことになる部屋の最寄り駅は、朋香がまだ降りたことがないという駅だ。彼女が初めてやってくるのが、わたしに会うためだというのは、とても光栄なことだ。とても。



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〈プロフィール〉
加藤千恵
1983年北海道生まれ。立教大学文学部日本文学科卒業卒業。
2001年、短歌集『ハッピーアイスクリーム』で高校生歌人としてデビューし、話題に。短歌以外にも、小説、詩、エッセイなど、さまざまな分野で活躍。
主な著書に『ハニー ビター ハニー』『さよならの余熱』『あかねさす――新古今恋物語』『その桃は、桃の味しかしない』など。
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第二話 彼女の知らない駅で
第一話 北欧まで何マイル