連載
ごめん。
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん 加藤 元 Gen Kato

    一

 その夜。
 吉本佑理(よしもとゆり)は、沈み気味だった。
 佑理は学生服専門の洋品店で働いている。四月はもっとも忙しい時期である。桜の花はすっかり散って、風が一日おきに冬の冷たさに戻ったり初夏の匂いを運んできたりするこの週末は、ちょうど繁忙期の谷間を迎えたところだった。残業に休日出社が続いた三週間ののち、ようやく訪れた定時退社、明日は休める金曜日の夜。なのに、重い気分が押し寄せて来る。
 元気を出そう。明日はのんびり寝ていられるじゃないか。
 気を取り直そうとしても、うまく行かない。もっとも、のんびりと言っても、佑理がだらだら昼間まで寝ていることは、まずない。天気予報では、明日は晴れ。早めに起き出して洗濯機をまわすだろうし、シーツや蒲団カバーも交換し、掃除機をかける。それから買い物に出かける。ショッピング、といっても、日用品の補充だけだ。トイレットペーパー、台所用洗剤。ゴミ袋も買わねばならない。そうした、こまごました生活の雑事を済ませてからでないと、佑理のくつろげる時間にはならない。
 就職し、親もとを出て、1K二十二uのマンションにひとりで暮らしはじめて十年。三十二歳の佑理は、毎日の「生活」が好きだった。ひとりですべてを決めて、自分の速度で、やり方で生きる。給料が多いわけではないし、経済的に余裕があるとはとうてい言えないけれど、食べたいものは我慢しないでいいし、読みたい本も買える「生活」。
 職場での仕事は書類作成と電話応対が主。同僚は口の悪い井上さんとひどい花粉症の大森さん。二人とも佑理より十歳以上も齢上で、既婚者だ。ついこのあいだまでは同期入社で同じ年齢の岩舘(いわだて)さんがいたが、三月いっぱいで辞めた。彼女たちとは退社後、たまにお茶を飲んだり夕食を共にしたりはするが、仲良しとまでは言いがたい。井上さんは大森さんの仕事ぶりを雑だとけなしているし、大森さんと辞めた岩舘さんは挨拶以外ほとんど口を利かない犬猿の仲だった。井上さんも大森さんも、自分のことだって蔭では褒(ほ)めちゃいないだろうと佑理は思っている。が、耐えられないほど悪い関係ではない。
 ただ、ここ一年ばかりは、少しばかり憂鬱だ。杉田課長が異動して来たからである。
 この夜、佑理をどんよりさせているのも、杉田課長の野郎なのだ。

 一年前、佑理たちの直属の上司になった杉田課長は、四十歳。美人の奥さんに、幼稚園児の息子が二人。大学時代はラグビーをやっていた。

「正直、女のひとの気持ちはよくわからないんだ。女子の人間関係って、いろいろ面倒なんでしょうね」
 のっけから、そう言いはなった。
「けど、みなさん、なにか不満や言いたいことがあったら、遠慮なくぼくに相談してくださいよ」
 あんたはいったいわたしたちにどうして欲しいんだ、というのが、佑理の感想である。



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
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第一話 ふつうじゃなくて、ごめん