連載
ごめん。
第二話 いつだって俺から、ごめん 加藤 元 Gen Kato

「怒鳴ってごめん。ついかっとなった。悪かった」
「ごめん、は無駄よ」
「え?」
 初穂は息を吸い込んで、思いきったように言った。
「私たち、しばらく離れて暮らしましょう」
「なに?」
「あなたとこのまま一緒に暮らしていくことはできない。一緒にいたくないの」
 何だって?
 この女は、今、何て言ったんだ?
「意味はわかったでしょう?」
 わからない。
 ぜんぜん、わからない。
 同じ日本語を使っていても、通じない。そんなことを言っていたのは、誰だっけ。そうだ、吉本佑理だ。この会話が、まさにそうなんだろう。
 オルゴールの音楽が、敬二郎の耳に流れ込む。この曲は覚えている。敬二郎が若いころに流行ったアメリカのポップスだ。恋人と仲良くべったり、という意味の歌詞だった。こんな際に、皮肉すぎる。眼の端にぼんやり見える店員の黒い立ち姿。呪いの人形、やはり不吉だったんだ。
「……俺がなにをしたっていうんだ」

 おまえはわがままだ。
 自分の声が、遠く聞こえる。
 考えてみろ。子供たちだっているんだ。
「あの子たちがいるからこそ、よ。このままでは、あなたをいいおとうさんだとは言えない。おとうさんみたいにはならないで、と言い続ける、そんな母親になってしまうわ。だいぶ前にも話したと思うけれど、私の母がそんな感じだったの。だから私はいまだに心のどこかで父を尊敬できないし、母も信じられない。あの子たちに私と同じ思いはさせられない。母と同じことを、私はしたくない」
 どうせ姉さんにそそのかされたんだろう。俺の悪口をだいぶ吹き込まれたんじゃないのか。
「いいえ。姉からは、そんな不満は離婚の理由にはならない。子供のために辛抱しろって言われたわ。姉さんは、身内に甘いわけじゃない。誰に対してだって厳しいし、辛辣(しんらつ)よ。姉さんの言うとおりかもしれない」
 そうだ、姉さんは正しいよ。
「わかってはいるけど、今の私は、あなたと一緒に暮らしていく気には、どうしてもなれない」
 わがままだ。それはわがままだよ。
「でも、私はもう、あなたがぜんぜん好きじゃないのよ」
 時間が、止まった。
 そんな気がした。
 今、何て言った? 
 言葉の意味が掴めない。いいや、掴みたくない。理解したくない。
「わがままはわかっている。けれど、これが本心なの。ごめんなさい」
 茫然としている敬二郎の眼の前で、初穂は、妻であるはずの女は、深々と頭を下げた。

「本当に、本当にごめんなさい」



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん