連載
ごめん。
第三話 ごめんね、ママ 加藤 元 Gen Kato

    一

 六月の最後の週の、月曜日。
 夜どおし、夢の中で、ずっと雨音を聴いていた気がする。が、その雨は、夜が明ける前にはすっかりやんでいた。
 井上咲枝は、目覚ましが鳴る五分前に眼を開けていた。午前一時から五時間半、眠っていたのは確かだが、浅かった。掃除に買い物に追われた前日、いいや、職場で残業が続いた先週から持ち越した疲れが、首筋や肩のあたりをどんよりと重くしている。
 外はすっかり明るい。カーテンを開けると、日差しはじかに差し込まないのに、朝の光がまぶしい。窓を全開にして、空気を吸い込む。見上げる空が青い。そろそろ梅雨明けが近いのだろう。
 今日は暑くなりそうだ、と溜息をつく。

 いつもと変わらぬ朝。
 身支度を整え、キッチンに立って湯を沸かし、コーヒーを淹(い)れる。息子の部屋のドアを軽くにぎったこぶしで軽くノックして、声をかける。
「朝よ」
 返事はない。いつものことだ。こぶしの向きを変え、ノックを強くする。
「起きなさい」
 まだ返事がない。舌打ちをして、ドアノブに手をかける。鍵がかかっている。咲枝はドアをだんだんだんと乱打した。
「恭介、起きなさい」
「騒がしいなあ」
 和室から、夫の晟一(せいいち)がよれよれと姿を現した。
「あいつ、まだ起きないのか」
 咲枝が口を開くより前に、ドアの向こうから声が上がった。
「起きているよ」
 いかにもたった今、口を開けたばかり。まぶたはまだ開いていない。息子のその顔を、咲枝ははっきりと思い浮かべることができた。
 起きている、じゃない。起きたんでしょう?
「朝ごはん、用意するからね」
 咲枝が声を張り上げる。今度は返事がない。
「ちゃんと食べていきなさいよ」
 恭介は答えない。これも、いつものことだ。頭ではわかっても、やはり腹は立つ。パパには返事をするくせに、ママ(わたし)には反抗的なんだ。
「食べないと躰(からだ)がもたないわよ。もう七月なんだから」
「…………」
 ごにょごにょ、と恭介がなにかを言った。咲枝が訊き返しかけるのを、晟一が止めた。
「まだ七月じゃないだろう、って言ったんだよ」
 そうでしょう、そうでしょうとも。



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
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第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん