連載
ごめん。
第三話 ごめんね、ママ 加藤 元 Gen Kato

 残念。
 いや、そう感じるのは、咲枝が他人だからだろう。親や身内からすれば安心に違いない。吉本佑理も三十歳を過ぎている。昔ながらの、結婚を中心とした価値観でいえば、若いとは決していえないのだ。
「娘が欲しかったな」
 咲枝は、思わず呟いていた。
「え?」
 大森季実子と吉本佑理が、ぎょっとしたように咲枝を見返している。
「ちょっと大きくなると、息子はつまらないもの。娘だったら違ったかも」
 娘だったら、好きなひとができたとか、学校でおもしろいことがあったとか、いろいろ話をして盛り上がれたかもしれない。恭介だって、ほんの少し前までは、そうだったのだ。会社から帰って来て、キッチンで食事の支度をしている咲枝の背後をうろうろしながら、ひっきりなしに話しかけて来た。
 ママ、今日の一時間目は何だったか知っている?
 知らない。
 算数だよ。浩太はいきなり居眠りして、先生に怒られたんだ。二時間目は何だったと思う?
 覚えていない。
 体育だよ。鉄棒をしたんだ。手にまめができたよ。
 見せてごらんなさい。本当、硬くなっている。痛い?
 痛くない。鉄棒からゆうくんが落ちて前歯を折った。鼻血も出たよ。ゆうくん、大車輪の真似をしようとしたら手が滑ったんだ。
 ねえママ、三時間目は何だったか、わかる?
 恭介は、一日に起きた出来事を、すべて咲枝に語りつくさずには満足できなかった。咲枝は恭介のほとばしり出る言葉の奔流を、半ばあきれて聞き流しながら、それでも幸福だったのだ。
 それなのに、そんな日々は、不意に終わった。
 一年前の土曜日のことだ。激しい夕立が通り過ぎた日。傘を持たずに友だちと遊びに行っていた恭介は、ずぶ濡れで家に帰って来た。
 ママはちゃんと言ったでしょう。天気予報では夕方から雨が降りそうだって。折り畳み傘を持っていけばよかったのよ。ほら、タオル。そのまま上がっちゃ駄目よ。床が汚れるじゃないの。靴下は脱いで、ちゃんと足を拭いて、それからお風呂場へ行きなさい。着替えを持っていくからね。ついでにお風呂も入ったらどう?
 恭介は、差し伸べた手を、荒っぽく振りはらった。
 うるさいよ。
 今まで見たこともないような、尖った眼で、咲枝を見返していた。
 ママ、うるさい。わかっているよ。
 あの日から、恭介は少しずつ変わっていったと思う。咲枝も理解はしている。必要な反抗期だ。こうして恭介は大人になる。仕方がないことだ。
 ひとりでやれるよ。手助けは要らないよ。ママはうるさいんだよ。
 これは恭介の成長なのだ。理解はできる。
 それでも、胸の中を風が吹き抜ける。痛みが走る。
「親なんて、つまらないものよね」



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん