連載
ごめん。
第三話 ごめんね、ママ 加藤 元 Gen Kato

 午後三時二十分。
 咲枝のバッグの中で、電話が鳴り出した。晟一からの着信だった。咲枝は座っていたベンチから立ち上がると、廊下の隅に向かいつつ電話に出た。
「もしもし」
「俺だ。恭介は?」
「捻挫だって。しばらくは歩けない。杖をつくことになるね」
「そうか」
「お医者さんの話では、大したことはないみたい。無茶をしなければ、すぐもとのように歩けるようになるって」
 晟一が黙る。咲枝もなにも言わない。言葉にしなくとも、きっと考えていることは同じだ。
 よかった。最悪の事態ではなかった。しばらく杖をつくだけだ。大したことはない。すぐに歩けるようになるんだ。
 よかった。本当によかった。
「俺も今日ははやめに帰るよ」
「うん。家で待っている」
 会話がいくら噛み合わなくとも、いつも仲のいい夫婦とはいえなくても、恭介に対しては、同じ思いを抱える。こうしてひとつの思いでつながる。
 やはりこの男とは他人ではないのだ。しみじみ思いながら、咲枝は電話を切る。

 右足を包帯でぐるぐる巻きにされた恭介は、ベンチにぼんやり腰をかけていた。
「パパから?」
 恭介は、朝のようにぶすっとしてはいない。ついさっき、病院の診察室で咲枝と顔を合わせた瞬間の表情。咲枝は胸の芯を掴まれたような気分になった。三歳か四歳のころ、保育園に迎えに行ったときに見せた、あの顔だった。
 痛みもあったろうが、なによりも不安だったのだろう。まだまだ子供なんだわ、この子は。
「うん。今日ははやく帰るって」
「別にいいのにな」
 声まで幼くなったようだ。
「おれ、バトンを落としそうになって、泡食っちゃったんだ。で、ぜんぜん前を見ていなかった」
 恭介はしょんぼりと肩を落としていた。
「駄目だなあ、おれ」
「しょうがない。そういうこともあるよ」
「ママ」
「うん?」
「会社、早退したんだろう。おれのせいで、ごめん」
「そんなことは気にしないの。いいのよ」
 ごめんなさい、は要らない。恭介、あんたは今までその口で、いったい何回ごめんと言って来たの? あんたのごめんなさいは、ぜんぜん信用できないんだからね。
 落ち込み気味の恭介を元気づけるために、軽く言い返そうとして、咽喉が詰まった。鼻の奥が熱い。涙がこぼれかけている。
 本当に、本当に、大ごとじゃなくてよかった。元気でよかった。



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん