連載
ごめん。
第四話 悪い妻で、ごめんなさい 加藤 元 Gen Kato

    一

 夢をみていた。
 好きな男と一緒に、ベッドの中にいる夢だ。男は若い。自分も、とても若い。だから、夢なのだと途中で気づいた。
 肌の、とても熱い男は、夫ではなかった。

 ぐしゅ。
 自分の放ったくしゃみで、眼が覚めた。
 ぐしゅん、ぐしゅ。連発だ。大森季実子はベッドから起き上がって、鏡台の上に置いてあるティッシュの箱に手を伸ばす。杉花粉の最盛期は過ぎたはずなのに、これだ。鼻の粘膜が弱くなっているんじゃないだろうか。このごろでは埃っぽい会社の倉庫に足を踏み入れただけで鼻水が止まらなくなる。色気もなにもあったものじゃない。
 ぢーん。強く鼻をかんでから、ようやく嗅ぎとれた。ごはんが炊ける匂い。視線を横に移す。隣のベッドはすでに空だった。季実子は、朝のひと息を、深く深く吸い込んだ。
 ああ、もうちょっと夢の中にいたかった。あのうっとりするような酩酊感。しばらく味わっていない。
 誰だったんだろう、夢の男。たくましい、強い腕。
 パジャマのまま、寝室を出て、ダイニングキッチンへ向かう。キッチンカウンターの向こうに、季実子の旦那さんの剛朗(たけお)が立っている。
「おはよう」
 炊飯器の内釜やフライパンを洗い終えたところらしい。台所用のタオルで手を拭いている。
「はやいのね」
 剛朗は、昨夜は職場の上司に誘われて酒をつき合ったとかで、帰宅は深夜十二時近かった。
「最近、夜は外でめしを食うことが多いからさ。小遣い節約のためにおにぎりを作ったんだ」
 シンクのまわりは昨夜よりぴかぴかだった。旦那さんは、季実子より家事が得意でまめなのだ。
「朝食兼用。八個もできた。季実子も食べろよ」
 八個って。季実子はあきれた。張り切りすぎだろう。朝っぱらからいったい何合炊いたのだ。小遣いを節約してうちの食料を無駄に減らしてどうする。せいぜい気を利かせたつもりだろうが、いくぶん的を外した感じ。うちの旦那さんはいつもこうなんだ。
「梅干しもおかかも昆布の佃煮も入れた。たまご焼きも作った。冷蔵庫の残り物の整理ができたよ」
 旦那さんはにこにこと機嫌がいい。
「これじゃ、どっちが奥さんかわからないな」
 そう、うちの旦那さんはこういうひとなのだ。文句を言うのはやめにしよう。季実子もにやにや笑いを返した。
「ごめんなさいね、悪い奥さんで」
 そう、うちの旦那さんは、とてもいいやつ。
 ずっと昔から、知っている。ピント外れなところもあるけど、基本的にはいいやつなのだ。



1         10 11 12 13 14 15 次へ
 
〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん