連載
ごめん。
第四話 悪い妻で、ごめんなさい 加藤 元 Gen Kato

 季実子自身は、それが自分の勘違いなどと考えはしない。彼は私に気がある。いつだって、その確信から季実子の恋ははじまった。現在の旦那さんとだって、そうだった。
 むろん、他人にそんな話はしない。苦い過去がある。はるか昔、まだ中学生だったころ、女友だちにその手の話をしても、反応は一様に冷たかった。
「自意識過剰すぎない?」
 面と向かって言われはしなかったが、蔭ではひどいものだった。一度、トイレの中で、同級生たちが自分をあざ笑っているのを聞いてしまったのだ。
「男から好かれるほど美人かどうか、鏡を見てみろって言いたいよね」
「あの子の家には鏡がないんじゃない?」
 出るに出られぬ個室の中で、季実子は歯を食いしばって耐えた。鏡はある。洗面所にある大きな鏡だ。毎朝、顔を洗って歯を磨いて、長い髪をとかしながら、穴が開くほど見ている。
「いつまで洗面台を占拠している気なんだ。おまえの面(つら)はいくら磨いたって大して変わり映えしねえよ、ぶす」
 高校生の兄からいくら罵声を浴びせられても、無視して鏡をにらんでいる。今、季実子を笑っている彼女たちの鏡だって、同じことを囁きかけてくるはずだ。
 うん、モデルや歌手みたいな美人とは言えないかもしれないけど、普通の女の子としては悪くない。鼻の横のにきびが目立つのが残念だし、いくらかほっぺたがむっちりし過ぎているけれど、にきびが消えてちょっとやせればぐんときれいになるはず。悪くない悪くない、いける。
 誰の鏡だって、自分には甘いものなんだ。わからないのだろうか、女のくせに。薄汚れた床のタイルを見下ろしながら、季実子は思ったものだった。わからないとしたら、たいした女じゃない。
 自分なんか可愛くないし魅力もない。男の子は自分を好きになんかならない。そんな風に考えている女が男に好かれるわけ、ないよ。

 そうだ。
 季実子は昔から男の子が好きだったし、好かれても来た、と自分で思う。
 幼稚園に通っていたころから、クラスに好きな男の子がいなかったことはなかった。
 旦那さんは、高校一年のときの同級生で、お互いに学級委員に選ばれたことから、親しくなった。が、当時は異性として魅力を感じたわけではなかった。季実子にはほかに好きな男の子がいた。
 同窓会で再会したのが、二十八歳のとき。結婚して十五年。仲はいい。TVを観ていたって、音楽を聴いたって、買い物に行ったって、話は弾む。好きなものへの感性が似ているのだろう。気が合うのだ。
 だけど、友だちみたい。
 恋人になって、夫になって、友だちに戻った。そんな感じ。
「話が合うなら、けっこうじゃないの」
 同僚の井上咲枝からは、そう言われる。
「うちなんか、話もかみ合わない。できるのは息子の話だけよ」
 確かに、他人から見ればうらやましい関係なのかもしれない。けど、何だか、物足りない。
 もちろん、こいずみくんと浮気をしたいとも、しようとも、真剣に思いつめているわけではない。婚姻は、守らねばならない人間社会の約束ごと。ましてや旦那さんに不満はないのだ。
 だけど、心の奥底までをがんじがらめに縛りきれる規則なんて、あるはずもない。だからこそ、今朝のような淫らな夢をみてしまう。
 お茶や食事に誘われたら、たぶん拒まない。自分は罪深い性質なのかもしれない、と季実子は思う。



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん