連載
ごめん。
第四話 悪い妻で、ごめんなさい 加藤 元 Gen Kato

     二

「大森さん、おはよう」
 杉田課長が、にこやかに声をかけて来る。
「おはようございます」
 季実子はうつむき加減に返事をする。視線は合わせない。パソコンの画面を熱心に見つめるふりをしながら、急ぎでもないメールの返信を打ちはじめる。いかにも忙しげな態度で、杉田課長に、あっちに行け、という合図を送る。
「昨日は暑かったね」
 杉田課長はのんびりと話を続けようとする。
「そうですね」
 本心では、舌打ちを返したい。しかし、まさかそれはできない。ぱちぱちぱち、とキーボードを荒々しく叩く。
 このところ、杉田課長がやたらとすり寄って来る。奥さんともめて、家出されたのだ。奥さんはなかなか帰る素振りを見せないらしい。このまま離婚する可能性も高そうだ。不安でいっぱいの杉田課長としては、愚痴の聞き役が欲しくてたまらないらしい。
 同僚の井上咲枝や吉本佑理は露骨に冷たい対応をするので、杉田課長としては季実子にすがるしかないのだ。季実子だって必ずしもやさしく応じているわけではないのだが、井上咲枝の毒舌や吉本佑理の軽蔑よりはましだと思うのだろう。
「今日も暑いね」
 ぱちぱち、ぱちぱち。井上咲枝も吉本佑理もまだ出社していない。井上さん、吉本さん、はやく来てよ。助けてよ。
 旦那さんも会社で同じような目にあっているんだろうか。まったく、お互いに苦労するね。
「夏ですからね」
 ぱちぱちぱち。
「大森さん、今日のランチは予定があるの?」
 誘う気なのか。ぱちぱちぱち。冗談じゃないよ。ぱちぱちぱち。
「お弁当を持ってきています」
「いいお店を見つけたんだよ。誘ってあげようと思ったんだけどな」
 杉田課長は恩に着せるように言った。
「残念です」
 ぱちぱちぱち。そういう言い方が腹立つんだよ。ぱちぱちぱち。いつ、誰が、あんたに誘ってほしいと頼んだよ。なにさまだ、あんたは。
「明日はどう?」
 げ、約束させる気? ぱちぱちぱち。勘弁してよ。あんたと二人で食事なんてしたくないよ。
「おはようございます」
 そのとき、吉本佑理が出社してきた。
「おはよう」
 季実子はほっとして、キーボードを叩く指を止めた。助かった。
「ちょっと相談したいこともあるんだよね」
 杉田課長はまだぐずぐずと季実子の横に突っ立っている。



    5     10 11 12 13 14 15 次へ
 
〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん