連載
ごめん。
第四話 悪い妻で、ごめんなさい 加藤 元 Gen Kato

 会社に出入りする里村くんとは、週に一度か二度、顔を合わせる。
「お疲れさま」
 季実子が声をかけると、さわやかに返す。
「疲れますねえ。辞めたいですよ」
 季実子が笑うと、里村くんは作業の手を止めて、真顔で言うのだ。
「大森さんは、そう思いませんか」
「辞めたら生活ができなくなっちゃう。辛抱するしかないでしょう」
「辛抱は嫌いですねえ」
「里村くんの会社、そんなにきついの」
「なにせ上がああですから、のんびりできないんですよ」
 里村くんの上司も、季実子の会社によく顔を出す。藤堂さんという名の、もう六十代のおじさんだが、箱詰めの荷物を山積みにした台車を押し、トラックの荷台に積み込む速度は里村くんよりはるかにはやい。季実子は、藤堂さんが空の台車をスケートボードのごとく乗りこなし、軽やかに道路を疾走している姿を見かけたことさえある。
「藤堂さんは、出勤したばかりのときは疲れの溜まったおじいちゃんみたいなんですが、プロテイン飲料を一本飲むと蘇(よみがえ)るんです」
 藤堂さんの肩書は営業部長。同族経営の小さな会社だとはいうが、営業部長がそんな具合では、部下としてはやりにくかろう。
「社長にとっても藤堂さんにとっても、仕事こそが生きがい。休むのは悪ですから。うちの会社はまだ昭和なんですよ」
「でも、藤堂さんだってさすがにいつまでも最前線で働いてはいられないでしょう」
「プロテインを与えておけば、あと五十年は動けそうですけどね。おれの方が先に倒れますよ」
「まさか」
 里村くんは、いつもどうでもいいような話題を持ちかけては、季実子を引き留めようとしている、ように思える。忙しいとき、挨拶だけで立ち去ろうとすると、名残惜しげに突っ立っている、気がする。とくに季実子に対して親しげにふるまっている、ようだ。そりゃそうだろうな、と季実子はひとり納得する。井上咲枝はきついおばちゃんだし、若い吉本佑理には色気がないもの。
 今朝の夢の男は、ひょっとしたら里村くんだったかもしれない。
 里村くんに食事に誘われても、自分は断らないだろうな。もちろん、食事くらいならね。あんまり本気になって来られたら困る。旦那さんとの仲を壊す気はないのだもの。
 だけど、本当に誘われて口説かれたら? 
 どうだろう?

 若いころ、旦那さんと出会う前は、いろいろあった。
「口説き文句なんて、信じる方が馬鹿よ。男って、酔っぱらえば適当なことを言ってくるものだもの」
 いつだったか、とりとめのない雑談をしていたとき、井上咲枝が断言していた。季実子は承服しかねた。そりゃ、あんたに寄って来た男はそうだったかもしれないけどさ。
「お酒に酔って口説く男ばかりとは限りませんよ。しらふで口説かれることもあります」
 反論すると、井上咲枝は鼻先で笑った。
「お酒じゃなきゃ、雰囲気に酔っている。どっちも同じ。あとのことなんか深く考えちゃいないの」



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん