連載
ごめん。
第四話 悪い妻で、ごめんなさい 加藤 元 Gen Kato

 ま、そういう男も確かにいたな。二十五歳のとき、同じ食品会社に勤めていた男。お酒の席で親しくなって、流れで深い仲になって、季実子はつき合っていると信じた。けど、こちらから会いたいときには、まったく電話がつながらない。向こうから会おうと言ってきたときだけ、会う。会ってもデートも食事もおざなり。とにかくホテルのベッドへ直行。それでも遊ばれているとは考えなかった、あのころの自分を思い出すと、さすがに季実子も頭を抱えたくなる。なにもかも悟ったのは、あの野郎の結婚話を聞いたときだったのだから、ひどく傷ついた。それも、季実子と同じ部署にいる後輩だった。まあ、彼女にはそれまでの経緯をみんなぶちまけてやってから会社を辞めてやったんだけれどね。彼らの結婚話はぶっ壊れたと聞いても、気は晴れなかった。落ち込みは長く尾を引いた。けれど、禍福は糾(あざな)える縄の如し。苦あれば楽あり。そののち今の会社に再就職し、たまたま出席した同窓会でめでたく旦那さんと再会したのだった。
 若い時分は、誰にだって、苦い記憶も失敗もある。間違うこともある。
 だけど、もう、そんな失敗は繰り返さない。
 若くはないのだ。

 そうだ、季実子は若い娘ではない。
 でも、男から振り向かれないほど、若くないわけではない。

     三

「大森さん」
 地下鉄の降り口で声をかけられて、季実子はげんなりした。杉田課長から、お昼過ぎに買い物を頼まれたとき、厭(いや)な予感はしていたのだ。
「デパートへ行くんだよね」
 杉田課長のにやにや顔が近づいてくる。
「はい。さっき頼まれた、古賀さんへのお詫びの品を買ってくるところです」
 会社を出る際、姿が見えないとは思ったが、まさか待ち伏せしていようとは。
「なにを買うの」
 もともとは杉田課長の発注ミスから起こった納品遅れのお詫びなのだ。にやけている場合じゃないだろうがよ。
「クッキーの詰め合わせを買うつもりです」
 老舗洋菓子店Yのクッキーは、ついこのあいだも旦那さんがおみやげに買ってきてくれた。季実子の大好物だった。
「Dデパートだろう。T駅だよね。途中まで俺も一緒に行くよ。斎田さんのところへ届けなきゃならない書類があるからさ」
 いいえ、G駅のM屋にします。課長も書類なら宅配便かバイク便に頼めばいいじゃありませんか。席に戻って、自分の仕事をしてください。脳みそをちゃんと使ってね。そうすれば私がデパートへ買い物になんか行かなくても済むんです。
 言いたかったが、季実子はぐっとこらえた。あきらめるしかない。どの道ついてくる気まんまんなのだ。
「相談があってね」
 駅のホームで電車を待ちながら、杉田課長は切り出した。
「仕事のことですか」
 そんなわけはない。どうせまた奥さんの話だろう。季実子は溜息を押し殺した。



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん