連載
ごめん。
第四話 悪い妻で、ごめんなさい 加藤 元 Gen Kato

「違うよ。私生活のことで、大森さんにはこれまでもいろいろと聞いてもらっているからね」
 聞きたくて聞いているわけじゃない。季実子は苦虫を噛みつぶす。無理矢理に聞かされているんだよ。今みたいにね。
「実はね」
 杉田課長はもじもじと視線を落とした。
「気になる女性がいるんだ」
「はい?」
 季実子は耳を疑った。あんた、奥さんとまだ離婚したわけじゃないんでしょう?
「驚いた?」
 杉田課長が季実子を探るように見つめる。季実子の頬がひきつる。
 まさか、その女性って私のことじゃないでしょうね。
「驚くよなあ。自分でも信じられない気持ちなんだ」
 杉田課長がふっと視線をそらした。
「家に帰っても誰もいないからね。ついつい近所のバーに入り浸ってしまっているんだけど、そこで働いている女の子でね」
 あ、よかった。私じゃなかった。
 安堵した次の瞬間、胆(はら)の底がざわざわとさざ波立って来る。なにをたわけたことを言っていやがるのだ、こいつは。
「俺の話を熱心に聞いてくれるんだ」
 そりゃ、商売だからだよ。
「ここ二週間ばかり、彼女のことが頭から離れなくてね」
 だから発注を飛ばしやがったのか。季実子は奥歯をぎりぎりと噛んだ。いい加減にしてよ。
「ひさしぶりなんだ、こんな気持ち。どうしていいかわからなくてさ」
 どうしたらって? 今すぐ電車に飛び込め。いや、いけない。鉄道会社や利用客に迷惑だ。
「大森さんに聞いてもらって、少し胸がすうっとしたよ」
 こっちは怒りで胸が裂けそうだよ。
「このことは誰にも内緒にしておいてくれよ」
 ごごごごう、とうなりを上げて、電車がホームへ走りこんで来る。季実子は言った。
「もちろんですよ。誰にも言えるわけがないじゃないですか」

 言えるわけがない、って?
 言わないわけがないではないか。
 急いで買い物を済ませて会社へ戻ると、課長はまだ留守だった。季実子はさっそく井上咲枝と吉本佑理にことの次第をぶちまけた。
「救いがたい男ね」
 井上咲枝が言下に決めつけた。
「このあいだ奥さんに逃げられたばかりなのに、もうそんな寝言を言っているんですか」
 吉本佑理はあきれ返ったようだった。
「男のひとは信じられないな」
「あなたの彼氏は心配ないでしょう」
 井上咲枝が吉本佑理の肩先を軽く突(つっつ)く。おや、と季実子は首を傾げる。井上咲枝がこんな風に砕けた言い方をするのは珍しい。



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん