連載
ごめん。
第四話 悪い妻で、ごめんなさい 加藤 元 Gen Kato

「わたしたちみたいにずうずうしくなっちゃうと、そういうのは本当にうらやましいわよね」
 井上咲枝が季実子に視線を向ける。
 待って、一緒にしないでよ。あんたはどうか知らないけれど、私はずうずうしくないから、別に。
「まあ、会って楽しくいちゃいちゃしていれば、それでいいんじゃないの」
 季実子の口調は、いささか棘(とげ)を含む。吉本佑理はかすかに苦笑した。
「あんまりいちゃいちゃしないです」
「そうなの?」
 本当につき合っているの? 勘違いじゃないの?
 里村くん、私を口説いた方がよかったんじゃないの?

 午後六時、退社。
 空はまだ明るかった。夕方の空気はねっとりと重い。
 混み合った電車から吐き出されて、汗まみれ。季実子は足早に改札口を出る。暑い。だるい。そして、ひどく疲れた。夕食を作るのが面倒くさい。スーパーマーケットに立ち寄る気力がない。冷蔵庫の残り物で間に合うだろうか。とにかくいったん家に帰ってから考えよう。もし間に合わなかったら、旦那さんに連絡をして買って来てもらえばいい。
 小学校の隣にある公園の入口に差しかかったとき、季実子は舌打ちをしたくなった。百日紅(さるすべり)が満開の木の下で、これ見よがしにべたべたしている男女がいる。この公園、夏場はこの手合いが多いのだ。
 ふだんなら苦笑して済ませるが、今日の季実子はいささか気が立っている。そういう真似は家の中でこそこそとやりな。さかりのついたけだものどもが。わざと公園の中を横切りながら、じろじろと顔を覗き込む。そして、息を呑んだ。
 こいずみくん、だ。
 あなたはなにをしているのですか?
 中学生英語の直訳のような文章が胸に押し寄せる。なにって、一目瞭然だ。若い女とおでこをすりつけるようにして囁き合いつつ、たまに唇もくっつけているのである。
 彼女は誰ですか?
 がんがん脈打つ季実子の頭の中で、こいずみくんは笑顔で答える。
 はい、妹です。
 そうですか、妹ですか。
 妹も私も帰国子女で、キスは挨拶なのです。
 ああ、そうですか。
 って、そんなわけがないだろう。挨拶にはとても見えない。どう見たって恋人同士じゃないか。
 恋する二人は、自分たちの世界でいっぱいいっぱいのようだ。通りかかる人間など、公園の木々と変わらない、ただの風景の一部。
 こいずみくんは、季実子の方を一瞥(いちべつ)もしなかった。



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん