連載
ごめん。
第四話 悪い妻で、ごめんなさい 加藤 元 Gen Kato

 なにも、失恋したわけじゃない。
 季実子は半ば駆けるように家路を急ぐ。
 ほんのちょっと、失望しただけ。それだけだ。浮気をしたわけじゃない。したいと思ったこともない。
 過ぎていく毎日の中の、ほんの少しの希望。ずうっと昔から、誰かに女として思われているという事実は、いつだって季実子を力づけてくれたから。
 現在が不幸なわけじゃない。不満はない。旦那さんはいいやつだし、毎日は平穏だ。ただ、少しだけ足りなかった。
 私は女なんだ、という、希望。

     四

 どんよりとした気分。
 マンションのエレベーターは上階に上がりっぱなしで、なかなか一階に降りてこない。こんな日は、なにもかも間が悪い。
 明日はまだ水曜日か。季実子は、はあああ、と深い溜息をつく。会社、行きたくないなあ。コンビニエンスストアは別の店に変えよう。こいずみくんとの仲は終わった。まあ、はじまってもいなかったわけだけどさ。
 がたん。ようやく降りてきたエレベーターの扉が開く。
「ばう」
 ゴールデンレトリバーに吠えかかられる。夕方の散歩に行くところらしい。興奮しきって季実子に飛びつき、膝に前脚をかけて来る。
「こら、よせ」
 飼い主の若い男がリードを強く引いて犬を叱りつけてから、季実子に頭を下げる。
「すみません。こいつ、女のひとが好きなんですよ。驚かせて申しわけありません」
 季実子はゆがんだ笑いを返してエレベーターに乗り込んだ。
 私がもてるのは、犬に対してだけかよ。
 まったく、今日はさんざん。こんな日は、本当に、なにもかも間が悪いんだ。

 六〇五号室、季実子の家。
 ドアの鍵は開いている。旦那さんが先に帰ってきているようだ。おやおや、と季実子は思う。朝は遅くなるようなならないような、微妙な返事をしていたのに、はやく帰れたのか。部長に捕まらなかったのかな。
 リビングルームの電気はついていた。だが、姿は見えない。鞄も電話も、三人掛けソファの座面に抛(ほう)りっぱなしになっている。シャワーでも浴びているのかな。首を傾げつつエアコンのスイッチを入れたとき、トイレの水を流す音がした。そうか、トイレか。季実子は思わず笑っていた。旦那さんはおなかを下しやすいのである。おそらく、帰って来る途中でおなかが痛くなって、家に辿り着くなりトイレに飛び込んだに違いない。
 ぶるぶるぶる。
 旦那さんの電話が振動した。誰かからメッセージが届いたのだ。季実子は何の気なしに電話を手に取り、画面を見た。



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん