連載
ごめん。
第五話 かすがい 加藤 元 Gen Kato

「来たの、信助」
 かあちゃんは冷蔵庫から出したばかりの冷たい麦茶を入れている。
「おとうさんってひとはね、こっちの話をぜんぜん聞かないんだよ。たまに聞いてくれたかと思えば、頭から否定してかかる。口を利くのが厭になっちゃうよ」
 そうなのだ。確かにおやじは、そういうやつなのだ。
「あたしが、雨が降るって言えば、ぜったいにこう言うよ。いや、もつだろう。晴れてきそうじゃないか。あたしへの返事には、最初に必ず、違う、とか、いや、とかつけないと気が済まないんだよ」
 おやじ、深く考えてものを喋っているわけではなさそうだけど。
「なにも考えちゃいないでしょうよ。とにかくあたしの言うことは否定したいんだ」
 かあちゃんを否定したところで、おやじが偉くなるわけではないのにな。
「仕方がないんだね。若いうちに自覚すれば何とかなったのかもしれないけど、おとうさん、あの年齢だもの。今さら性格がなおるわけはない」
 かあちゃんはお茶をひと息で飲み干すと、信助の背中を軽く叩いた。
「さあ、洗濯機も止まったみたいだし、洗濯ものを干して来ようかね」
 あれ、かあちゃん、午後からは雨らしいよ。聞いていた?
 駄目だな。信助は軽く嘆息する。おやじの言葉なんか、かあちゃんだって聞いちゃいない。お互いさまなのだ。
 昼までに乾くといいけどな、洗濯もの。

 天気予報は、当たった。
 正午になって、空からごろごろと不穏な音が鳴りだした。にわかに黒い雲がかかり、やがて大粒の雨がばらばらと落ちてきた。
 信助は、雨の匂いが好きだった。嬉しくなって、ベランダの掃き出し窓から顔を出し、空を見上げた。
「外へ出ちゃ駄目だよ、信助。濡れちゃうよ」
 かあちゃんは、拡げて干してあった洗濯ものを抱え込んで、掃き出し窓をぴしゃりと閉めてしまった。
「あの野良ちゃん、どうしているかしらねえ」
 信助の脳裏には、どこかの家の軒下で身を縮め、雨が上がるのをじっと待っている、あの猫の姿が浮かんで来た。
 雨の匂いが好きなのは、家の中にいられるせいだ。あいつはきっと、この匂いが好きではないだろう。
「さて」
 洗濯ものをたたんで、箪笥の中にしまってから、かあちゃんは一階に下りる。信助もついて行く。かあちゃんは真っ直ぐ洗面所に向かい、鏡の前に立った。
 化粧をする気だ。外出するんだ。こんな雨の中を。



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん