連載
ごめん。
第五話 かすがい 加藤 元 Gen Kato

 茶の間から、がたん、と音がする。
「ああ、やっちゃった」
 見ていなくても、信助にはわかる。子供がコップを倒して、テーブルから畳にジュースがこぼれたのだ。
「すみません」
 奥さんの声に続いて、うわあ、と泣き声。
「泣くんじゃないの。あんたが悪いんでしょう。ほら、おばあちゃんに謝りなさい」
「気にしなくていいんだよ」
 かあちゃんのとりなす声。
「すみません。本当にごめんなさい」
 日がな一日、来てから帰るまで、奥さんは謝ってばかりだった。
 だから、厭になっちゃったんだろうな、奥さん。

 今年の夏休み。
 信助は、子供たちに悩まされることはなかった。
 なぜなら、奥さんが子連れで家出をしてしまったからだ。
「出て行ったきり、帰ってこないんだよ」
 梅雨のころ、その話をしにきたとき、「兄」はだいぶ酔っぱらっていた。
「俺はなにもしていないんだよ。女の気持ちなんて、わからないな」
 そればかり繰り返していた。
「かあちゃんだって悪いんだ」
 ついには、そんなことまで言い出した。
「かあちゃんがいけない。あんまりちょくちょく家に押しかけて来るから、あいつは不満だったんだ」
「あたしなの?」
 かあちゃんはさすがに顔色を変えていた。
「あたしの責任なの。それが原因なの?」
「それだけじゃないけどさ。かあちゃんにも思慮に欠ける行動があったんだよ」
「あんたも、なの」
 かあちゃんは声を震わせた。
「あんたも、そうやって、何でも他人のせいにするの?」
 その夜、「兄」は、酔ったまま茶の間で寝入ってしまった。かあちゃんはいつものように蒲団の用意をし、枕もとに水を置き、「兄」の世話をしたけれど、その顔はいつもみたいに嬉しそうではなかった。
「信助」
 溜息をつきながら、信助の頭を撫ぜた。
「あたしは、ぜったいに家出はしないよ。どこへも行かない」
 当たり前だ。信助がこの家にいる限り、かあちゃんはここにいなければ駄目なんだ。
「やっぱりあんたがいちばん可愛い」
 かあちゃんは呟く。
「自分の子だって、気がついたら遠い人間になっている。そういうものなんだね」
 気にするなよ、かあちゃん。そんな馬鹿息子、棄てちゃえ、棄てちゃえ。今度来たら家に入れなくていい。
「あんたがいてくれてよかったよ、信助」
 そうだろう、そうだろう。



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〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん