連載
ごめん。
第七話 ナニサマ 加藤 元 Gen Kato

     一

 電車が駅に着いたとき、昨日から降り続いていた雨は、ようやく止んでいた。
 よかった、と鍋島楓子(なべしまふうこ)は思う。雨は嫌いではない。が、台風の当たり年だったこの秋、雨にはさすがに食傷してしまっていた。
 楓子は改札を出て、空を見上げる。濃いグレーの雲が、建ち並ぶビルの上を厚く覆っている。けれど、彼方ではほんの少し雲が切れて来ていて、青い空が見えている。ほっと息をつく。
「ちょっと」
 耳もとで、いきなりとげとげしい声が聞こえた。
「危ないじゃないの」
 女が自分をにらみつけている。楓子より若そうだ。
 危ないって、なにが?
 楓子は面食らって立ちすくんでいた。
「傘。子供に刺さったらどうするのよ」
 殺気のこもった視線を楓子から離さないまま、女が続ける。見ると、女の足もとには三歳くらいの女の子が立っていた。電車を降りた時点で、自分の後ろに子供が歩いていることは、楓子も気がついていた。あめあめふれふれ、と大声で歌いながら楓子にくっついて来ていて、子供の履いている長靴の先は何度も楓子の踵にぶつかっていたので、気がつかざるを得なかったのだ。
「傘?」
 自分の傘の先端が、この子に刺さりそうになったのか。申しわけないことをした。すみませんでした。
 口を開きかけたところに、女が言葉をかぶせて来た。
「謝りなさいよ」
 楓子の声は、咽喉で詰まった。
 肩から下げている、大きめのトートバッグの持ち手に引っかけてある傘。先端は下を向いている。むろん、手前にかけてあるし、先端は膝よりも低い位置にある。幼い子供からすれば微妙な高さかもしれないが、危ないと高圧的に文句を言われるほどではない。ぶんぶん振りまわして歩いていたわけではないのだ。
 謝りなさいよ、って?
 そもそも、危ないと思うのなら、前を歩いている人間に子供を接近させなければ済むことではないか。あんたの子供が何回わたしの踵を蹴飛ばしたか、知っているのか? 手をつなげよ。つないで大事な子供を守れよ。
 思いはしたが、口にはしない。楓子は無言で歩き出した。
「謝れよ。何なの、あんた」
 女の怒鳴り声が追ってくる。楓子は足早に歩を進める。小さく呟く。おまえこそ何なんだ?
 遠い青空。秋の日差しがやっと戻って来た兆し。それなのに、不快な澱(おり)が胸に残る。これから仕事だというのに、悪い一日のはじまりになっちゃったな。
 溜息が漏れた。



 
〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第十一話 十四と四十
第十話 小言幸兵衛
第九話 うさぎが転んだ
第八話 ごめんじゃすまない
第七話 ナニサマ
第六話 電話家族
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん