連載
ごめん。
第七話 ナニサマ 加藤 元 Gen Kato

 楓子は喫茶店で働いている。
 勤めはじめて、まだひと月足らず。三十歳を過ぎて、アルバイトの身だ。十年近くも働いていた医療機器の販売会社を辞め、家に引きこもって学生なみの長い夏休みを過ごしたのち、ようやく外に出る気になったのだ。
 ほんの一年前まで、自分は強い人間だと信じていた。ちょっとやそっとではへこたれない。会社を辞めることになるとも思っていなかった。結婚しても働き続けるつもりでいたのだ。
 間違いだった。
 強いのではない。運がよくて、逆境を知らなかっただけなのだ。その証拠に、厭(いや)なことが立て続けに起こった途端、自分を支えてきた「強さ」とやらは、音を立てて崩れた。他人が怖くて、世界から隠れたくて、夏のあいだじゅう、カーテンの蔭から外を見ていた。
 謝りなさいよ。
 声を荒げて、他人に要求する人間が、世の中には多すぎる。頭を低くしてやり過ごさねば、こちらが参ってしまう。
 少しは外に出た方がいいんじゃないか、と、父親からも言われた。かあさんみたいな穴熊生活を送ることはないんだ。おまえはまだ若いんだからな。
 わかってはいる。これではいけない。こんなはずじゃなかった。こんなに弱いはずじゃなかった。もっと強くあらねばならない。「強さ」をふたたび手にしなければならない。たとえそれが仮面であったとしても。
 決意してアルバイトをはじめたものの、実際のところまだ怯(おび)えている。相手から要求される前に、すみませんでしたと詫びてしまった方が楽な気がしている。
 だから、さっきみたいな女に因縁をつけられるのかもしれない。きっと、現在の楓子は、いかにもすぐにぺこぺこ謝りそうな顔をしているんだろう。
 悔しい。

 楓子が出勤するのは、午前十一時。
 担当はホール。厨房の仕事はまだ任せてもらえない。湯を沸かすとか、グラスや皿を洗う程度である。おはようございます、と顔を出したときには、ランチの準備は整っているし、ケーキはケースの中に入っている。
 ランチメニューもケーキも二種類ずつしかないが、毎日替わる。小さな店だが、固定客がついていて、いつも忙しい。楓子がこの店を知ったのも、おいしいお店だから、と友だちに連れて来てもらったことがあったからだ。落ち着いた、感じのいい空間だし、コーヒーもケーキもおいしい。それだけの理由で応募したら、あっさり採用されたのである。
 店を取り仕切るのは、佐々木ルミ店長である。年齢不詳。いつも黒ずくめの服装、白い顔。濃いアイメイク。金太郎のようなショートカット。接客業だというのに、無駄な笑いはいっさいない。お客さんがいない時間に雑談をすることさえほとんどないのだ。これじゃ、アルバイトは居にくいだろうな、と楓子は思う。だが、今の楓子にとっては、その方がありがたい。



 
〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第十三話 しゃぼん玉(最終回)
第十二話 ハッピーエンド
第十一話 十四と四十
第十話 小言幸兵衛
第九話 うさぎが転んだ
第八話 ごめんじゃすまない
第七話 ナニサマ
第六話 電話家族
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん