連載
ごめん。
第七話 ナニサマ 加藤 元 Gen Kato

 母親も、健康はすっかり取り戻したかに見えた。いくぶん家の中に引きこもりがちにはなったが、もとから社交的な性格ではなかった。子供のころに両親を亡くして以来、天涯孤独で身寄りはない、とつねづね言っていた。楓子が知る限り、学生時代の友だちとの交流もない。親戚づき合いは父親方とのお義理だけ。近所との交際も挨拶程度。父親の会社の人間が家に来ることはなかったし、楓子の学校のPTA活動も、浮世の義理は果たさねばならない、と忍んでいるのを隠そうともしなかった。
 毎日、夫と娘を送り出した家の中で、母親は家事をし、猫と遊び、読書をし、植木の世話をする。家に帰りさえすれば母親がいて、楓子のお喋りの相手になってくれる。
「おかあさん、家にばかりいてつまらなくない?」
 訊くと、母親はゆっくり首を横に振る。
「私は家にいるのがいちばん楽しいし、落ち着くよ」
「友だちと話がしたいとか思わないの」
「あんたやおとうさんと話すだけでじゅうぶん」
 あとはこの子がいればね、と、すり寄って来る三毛猫のプーコの背中を撫でた。
「私は人間が苦手な人間なのよ」
「……よくわからない」
「わからない方がいい。あんたは人間を好きでいなさい」
 母親は真面目な顔になった。
「ただし、誰の前でも、あんまり愚痴はこぼしちゃ駄目だよ。悪口ならいくらでも言っていいけどさ」
「愚痴と悪口の違いがわからない」
「厭なやつを悪しざまに罵(ののし)るのは楽しいじゃないの。愚痴と違って、笑い飛ばせる。愚痴を言うのは、自分の弱みをさらけ出すこと。こいつは弱いと思わせたら最後、つけ込んでくる人間はどこにでもいるものだからね」
 楓子からすれば、母親は皮肉屋で面白かった。友だちとの諍(いさか)いも、ちょっとした悩みごとも、母親に相談さえすれば、げらげら笑って流すことができた。友だちとしても、きっと魅力的だったに違いないと思うのに、なぜ人間が苦手だなんて言うのだろう。
「なぜって? そうだねえ」
 少し首を傾げてから、母親は語りだした。
「たとえばこのあいだ、スーパーマーケットのレジにいたのよ。研修中、の札をつけた新入りのおばちゃん。緊張しきっていてね。かごから商品を取り出して、バーコードを通して、またかごに入れる。その動きが、まあ、実にもたもたもたもたしていてね」
 楓子は頷いた。
「ああ、新人さんのレジに当たっちゃうことってあるね。たいがいそのレジだけ客が少なかったりするから、うっかり並んじゃう」
 いかん、はまっちまったと気がついて、ほかのレジに並びなおそうとしても、よそはもう長蛇の列だったりするのだ。



 
〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第十三話 しゃぼん玉(最終回)
第十二話 ハッピーエンド
第十一話 十四と四十
第十話 小言幸兵衛
第九話 うさぎが転んだ
第八話 ごめんじゃすまない
第七話 ナニサマ
第六話 電話家族
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん