連載
ごめん。
第七話 ナニサマ 加藤 元 Gen Kato

 今かよ。
 楓子は浴室の壁を手のひらで叩いて、うめいた。
 ああ、おかあさんがいれば。いてくれれば。
 無視しよう。この状態では出られない。無視する。わたしはいない。留守。悪いけれど出直して。
 しかし呼び鈴は執拗に鳴らされた。楓子は念じる。プータ、おまえが出ろ。少しは役に立てよ。やがて、がたがたと玄関の戸を揺らす音が聞こえて来た。
「いらっしゃるんですよね。さっき帰って来られたの、ちゃんと見ましたよ」
 安井さんの声だ。
 何なのよ、いったい。
 楓子はシャワーを止めて、躰(からだ)にタオルを巻きつけ、床を濡らしながらインターフォンを取りあげる。
「何のご用でしょうか」
「出て来てください。画像を見てほしいんです」
「画像?」
「おたくの枇杷の枝ですよ。うちの方にどれだけ突き出ている状態か、ご覧になればわかっていただけるでしょう」
 忘れていた。楓子は天を仰いだ。枇杷の木の一件。
「父には伝えました。どうかもう少しお待ちになってください」
 確かに言うには言ったが、父親が手を打った形跡はない。失敗した。もっとせっつくべきだったのだ。
「出て来て、画像を見てください」
 安井さんは主張を繰り返す。楓子は泣きそうだった。
 こんなときに、それ? そりゃ、そもそも我が家が悪いんだけどさ。
「すみませんが、今は出られないんです」
 素っ裸で水浸しなのです、とはさすがに言いかねた。
「手が離せないんです」
「ちょっとでいいんですよ」
 自分たちは悪くないから、わたしの都合はお構いなし。そういうわけ?
「無理なんです」
 一瞬、安井さんは沈黙した。
「そうですか」
 ぷつん。
 インターフォンが切れた。明らかに気分を害したようだ。だが、楓子の気分も最悪だった。
 謝りなさいよ、という声を、ふたたび耳の奥に聞いた。
 濡れたふくらはぎをプータがじゃりじゃりとなめている。もはや押しのける元気もなかった。



 
〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第十三話 しゃぼん玉(最終回)
第十二話 ハッピーエンド
第十一話 十四と四十
第十話 小言幸兵衛
第九話 うさぎが転んだ
第八話 ごめんじゃすまない
第七話 ナニサマ
第六話 電話家族
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん