連載
ごめん。
第九話 うさぎが転んだ 加藤 元 Gen Kato

「これだけでかい車体が動こうとしているのが、見えていないのか、ばあさん」
 藤堂さんは舌打ちをした。
「年寄りめ」
 いや、あんただって六十歳過ぎ。そっちの仲間だろう。
 思うのだが、永二郎は黙っている。相手は営業部長、上司なのだ。
「俺としては、優勝争いはどうでもいいんだ」
 藤堂さんの話は相撲に戻っている。
「が、若い連中が幕下、十両と、じわじわ上がってくるのを見るのは楽しみなもんだ」
「そうですねえ」
 気のない返答をしつつ、永二郎はトラックを発進させる。
 藤堂さんはまだましだ。野球やら相撲やらマラソンやらオリンピックやら、興味はなくとも多少はついて行ける、いわゆる世間話をする。これが社長だと、うちの奥さんがああ言ったこう言ったという、相槌にさえ困る自分語りしかしない。あとはマンションのローンと生命保険の話だ。社会人ってのはこんなにつまらない話しかしないものか、と感心するくらい味のない会話になる。
「それにしても、もう五日め、序盤戦は終わりだもの。あっという間だよ、場所中の二週間はな」
「そうですねえ」
 口では言いつつ、胆(はら)は正反対。まだ木曜日か、一週間は長い、長過ぎるよなあ。早く土日来い、休みよ来いと、念じている。
 もともと、永二郎は、仕事好きな性質ではない。親もと住まいのお蔭で生活費の心配はないのだが、唯一の楽しみである自動車を維持するための費用がかかるから、金は必要だ。ゆえに働く。働かざるを得ない。
 勤め先は、小さな運送会社である。社会に出てから三つめの会社になる。はじめは食品会社の配送の仕事をし、次は中古車販売のディーラーをしていた。どちらの会社でも、かなり真面目に働いたと自負している。現在だって、また然(しか)りである。仕事をして、金を稼ぐ。そのこと自体はいい。だが、愛社精神は生まれないし、育たない。ある日あるとき、ちょっとしたことで、ふっと辞める気になってしまう。いつもなら聞き流せる上司の厭味(いやみ)やお客の苦情が、それ以上はひと言たりとも耳に入れられなくなる。
 おれは、人間関係ってやつが、得意じゃないんだ、昔から。他人の顔色を窺って、話を合わせて、おかしくもないのに笑う。何時間も何時間もそんな風にしていると、無性にひとりになりたくなる。たったひとり、自動車に乗って、ハンドルを握って、目的地もなく、ひたすら夜の道路を突っ走りたくなる。
 性根がない。ふらふらしている。父親や母親からは、そう説教をされた。そんなことで、この先どうするつもりだ。今はまだいい。しかし結婚をして、子供ができたら、そんな真似はしようったってできなくなるんだぞ。
 結婚? 子供? 永二郎にとってはまるで実感がわかない。白昼夢みたいな話だ。今はまだいい。ならばいいじゃないか。我慢できないものは、できないんだ。



 
〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第十三話 しゃぼん玉(最終回)
第十二話 ハッピーエンド
第十一話 十四と四十
第十話 小言幸兵衛
第九話 うさぎが転んだ
第八話 ごめんじゃすまない
第七話 ナニサマ
第六話 電話家族
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん