連載
ごめん。
第九話 うさぎが転んだ 加藤 元 Gen Kato

 うちの奥さん、今日はこんなことを言ったんだ。うちのマンション、値上がりしたんだ。いつかはそんな話しかできなくなるって? まっぴらだ。
 今日は木曜日。明日は待ちかねた金曜日だ。夜は自動車に乗れる。夜どおし走れる。どこへ行こう?
 信号が赤になる。トラックを停車させる。藤堂さんは相撲の話を熱く語り続けていた。永二郎はふと視線を泳がせる。探しているのは、さっき座席の脇に抛(ほう)り出したままの、電話。
 そうだな。おれはよく電話を気にするようになった。藤堂さん、当たり。
 里村永二郎の人生は、ほんの少し、変わって来たのかもしれない。

     *

 はじめは自転車だった。
 兄からのお下がりの、青い自転車。小学校から帰ると、すぐに飛び乗って、公園へ向かった。友だちに会う約束はしていない。目的は自転車に乗ること、そのものなのだ。公園の中をゆっくり一周して、それから大通りへ出る。自動車が激しく行きかう四車線の大通り沿いの歩道を、通行人をよけながら走る。行く当てはない。ただ、遠くへ行きたい。行けるところまで行きたいと、いつも思っていた。
 友だちはいない。仲間もいない。
 相棒がいるとすれば、自転車だけだ。

 ――今日はどこまで行く?
 ――行けるところまで行こうよ。

     二

 島田壮介とは、国道沿いの和食系ファミリーレストランで待ち合わせた。
 二人で会うときは、いつもチェーンの居酒屋やファミリーレストランなのだ。色気もこだわりもない。が、無難である。野郎同士なら何をどう食ったっていい。悩むだけ無駄じゃねえか。という島田の決断の結果、そうなった。
 午後七時十五分。夕食どきだが、広い店内にお客は半分ほどの入りだった。永二郎が奥の席に旧友の姿を見つけたとき、島田はジョッキでビールを飲んでいた。
「おう」
「よう」
 ひさびさの挨拶は、原始人のような唸(うな)りで済む。
「どうしていた」
 席に座りながら、永二郎が訊くと、島田は渋面を作ってみせた。
「インフルエンザにかかった。五キロ痩せたよ」
 島田はいくぶん誇らしげに胸をそらせた。



 
〈プロフィール〉
加藤元(かとう・げん)
1973年神奈川県生まれ。作家。2009年『山姫抄』で第四回小説現代長編新人賞を受賞しデビュー。11年に発表した『嫁の遺言』が大きな話題を呼ぶ。他の著書に『流転の薔薇』『日蔭旅館へいらっしゃい』『四百三十円の神様』『好きなひとができました』など。
Back number
第十三話 しゃぼん玉(最終回)
第十二話 ハッピーエンド
第十一話 十四と四十
第十話 小言幸兵衛
第九話 うさぎが転んだ
第八話 ごめんじゃすまない
第七話 ナニサマ
第六話 電話家族
第五話 かすがい
第四話 悪い妻で、ごめんなさい
第三話 ごめんね、ママ
第二話 いつだって俺から、ごめん
第一話 ふつうじゃなくて、ごめん